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コロナから早く脱出しよう
 今回は6月18日に和歌山競輪で開幕する「第71回高松宮記念杯競輪」の話題をと思って記録を整理していた。ところが「新型コロナウイルス」の猛威が増し、日を追って倒産、休業、休職、離職者が続出。それに伴って家計は苦しく、学校も休校になるなど大変な状態に陥り、政府は5月5日までを「緊急事態」と見てきたが、その期間を延長する意向を示している。
 そんな状態の中、スポーツ界でも開催日程などに大きな変化が出るなど、改めてコロナがもたらしたことから話を進めさせていただきたい。
 大相撲や競輪などが「無観客」で開催されたのは周知のところだが、その後、東京オリンピックは開催日程に苦労し、プロ野球の開幕は5月11日以降にするとか、他の競技も中止や後日にするなど苦慮している。
 競輪界も例外ではなく、4月5日に終了した高知記念の後、9日に開幕する平塚記念、16日から始まる西武園記念の中止を決定。これに同調するかのようにいくつもの競輪場が開催中止を表明した。
 そればかりか5月5日に開幕する静岡競輪の「第74回日本選手権競輪」の中止が4月24日に決定した。同レースの中止は1961(昭和36)年以来59年ぶりとのことだが、2日後の26日、今度は相撲界から6人の感染者が出て次の開催日程が怪しくなり、同じ日、全国高校総合体育大会(インターハイ)も史上初の中止。翌27日には土佐の名物・よさこい祭りも中止する話が出るなど想像もできない事態になりつつある。
 こうした話が飛び交う中で、日本経済新聞や朝日新聞などは約100年前(1918年)に発生したスペイン風邪(インフルエンザ)の記事を掲載。当時17歳だった昭和天皇が感染され、著名評論家の島村抱月が死去した記事なども載り、世界中で5千万人~8千万人とか、最大で1億人が死去したともいわれたほどの病魔を1日も早く払拭しようと訴えていた。
 今後、コロナはどうなるか分からないが少しでも早く消滅してほしい。というのは被害が広がれば広がるほど国民は苦境に追い込まれ、競輪界も施行者をはじめ、選手、従業員、サテライトの設置者やそこで働く人たち、さらには競輪専門紙など報道関係の収入減退など大変なことになる。
 その苦境を乗り切るために競輪界がすることは、開催中に患者が出ることを絶対に防ぐことだ。では、施行者やプロ選手たちはそのためにどんな方法を取っているのか。最近、取材した中から幾つかを紹介するとー。
 日本で暮らす人なら自転車に乗った集団が棒状になって道路を走っている姿を見たことがあるだろう。これは各地域に住む競輪選手が合同で練習している姿で、時には他府県の選手も参加したりしている。プロ選手にとっては脚力増強のため絶対に欠かすことのできない練習方法の一つである。
 ところが、その中で誰かにコロナの疑いが生じた場合、集団練習はもとより、その地区の競輪開催は中止になるだろう。選手たちはそれを自覚し最近では共同ではなく単独で「街道練習」をする者が続出しているようだ。
 また、彼らが次の出走競輪場へ向かう時、同じ列車を利用しても選手同士が話し合うのを避け、別々の車両に分かれて目的地に向かうという。さらに、これまでは競走を終えた後、仲間同士で楽しんでいた会食などはほとんどなくなったそうだ。
 一方、施行者も真剣に取り組み、参加選手には場内にある4人部屋などを使っていたのを、昨今では余分に近隣のホテルや旅館を借りて個別に投宿させるなど、コロナ対策に全力を注いでいると聞いている。政界では今年のゴールデンウイークの終了時を「緊急事態の目安」と宣言していたようだが、4月30日付の新聞には「宣言延長へ」と報じている。これから先はどうなるのか。命を賭けて防がなければならない病魔だけに一刻も目を放すことができない日々が続きそうである。
 コロナ関連の話が長くなったが、ここからは最初に考えていた6月18日に和歌山競輪で開幕する「第71回高松宮記念杯」について歴史的なことに触れてみたい。
 今から80年前の1940(昭和15)年、滋賀県・琵琶湖の東岸に近い所に天智(てんじ)天皇を祀る「近江神宮」(左下の写真)が造営された。
 翌41年に日本は世界大戦に突入するのだが、神宮を建設する時、天智天皇を崇拝されていた高松宮様が同神宮の名誉総裁になられた。そして、同年11月7日、神宮外苑の運動場で地鎮祭が行われた。この運動場が50(昭和25)年に琵琶湖競輪場となり、同年4月20日に「第1回高松宮・同妃賜杯」(中央の写真が両殿下)が行われた。
 当時は女子競輪もあり、春は「宮賜杯」、秋は「妃賜杯」が行われ、前者は今も日本名輪会員として知られる山本清治(熊本から大阪に転籍)、後者は渋谷小夜子(神奈川)が優勝した。右端は優勝選手を表彰される宮様の写真だが、受賞者が誰だか探し出せなかったのはお許し願いたい。
 宮杯は1952(昭和27)年に「高松宮賜杯競輪」、1954(昭和29)年には「高松宮・同妃賜杯競輪」と改称。両タイトルレースは昔の女子競輪が廃止された1964(昭和39)年まで続き、両殿下は何回も来場された。
 その間に今も噂に残る田中和子(奈良)が妃賜杯を4年連続優勝するかたわら70連勝という驚異的な記録を残した。そうした華やかさもあって表彰式はいつも左上の写真のようなにぎやかさだったそうである。
 宮杯はその後も繁栄の一途をたどり、同レースの開始前から周辺の旅館は予約が続出。開催時には国鉄(JR)大津駅前にはフアンを運ぶタクシーが列をなし、駅の構内にある土産物売り場は笑いが絶えないほどだった。
 申し訳ないことに、今回はコロナ関係の話題に追われて宮杯の全容を紹介できず、高松宮殿下の遺影の前に並ぶ名輪会員(中央の写真)と、両殿下の遺影の前で撮影した佐藤進・元宮務官(右端の中央)ら、私の人生を大きく変えて下さった人の紹介が出来なかった。従って次回は同じ写真を掲載して再び宮杯を振り返ってみたいと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。