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高松宮記念杯和歌山で開催
 前回は6月18日に和歌山競輪で開幕する「第71回高松宮記念杯競輪」に焦点を当て、同レースが昭和25(1950)年に初めて開催された時から今に至るまでの歴史を記録しようと思って古い資料を探した。
 ところが、その直前に「新型コロナウイルス」による恐怖が世界中に広がり、日本も政治、経済、教育、スポーツなどあらゆる面に大きな被害をもたらし、競輪も無観客レースや開催を中止する競輪場まで出て来た。
 そうした状態が少し和らいだのは去る6月1日で、交通、商業、飲食店などがわずかに賑わいを取り戻した。だが、それとほぼ同じ時、西日本地域の一部で新しいコロナの感染者が出た。
 これには驚いたが、今年のプロ野球は6月19日に開幕すると聞いているし、その前日の18日から始まる和歌山競輪の「高松宮記念杯」(以下、宮杯と書く場合もある)が成功裏に終了すると信じて「宮杯の歴史」にふれたいと思う。(下の写真は満員の超和歌山競輪場での懐かしい行事から抜粋)
 「宮杯」は約80年前の昭和15(1940)年に滋賀県大津市に建立された「近江神宮」と深い関係がある。滋賀県といえばすぐ頭に浮かぶのは琵琶湖だが、その湖の西側に比叡山がそびえ、ふもとに高松宮様が尊敬されていた「第38代・天智(てんじ)天皇」を祀る(まつる)近江神宮がある。
 話はもう少し前になるが、神宮を建立する時、高松宮様が「近江神宮奉賛会」という会の名誉総裁になられ、滋賀県と大津市によって工事が進み、神宮とともに「外苑」も出来上がった。その間、宮様は何回か大津に来られたそうだが、そのうちに「第2次世界大戦」が始まり、昭和20(1945)年に終戦。日本は戦争に敗れ大勢の国民は苦しい生活に耐え忍んだ。
 そうした暮らしの中で、昭和23(1948)年に北九州の小倉市(当時の名称)に競輪場が誕生した。「娯楽」が少なかった時代だけに人気は盛り上がり、2年ほどの間に20カ所前後の競輪場が全国各地に出来上がった。
 これに着目したのが滋賀県の佐藤与吉という人だった。同氏は後日、同県自転車振興会理事長に就任されたが、外苑を競輪場にすることを提案。これを滋賀県と大津市が同意して昭和25(1950)年4月に完成し、高松宮様にお願いして「高松宮・同妃杯競輪」という名称で競輪がスタートした。
 当時、女子レースもあり、春は「宮賜杯」、秋は「妃賜杯」という名称で行われ、2年後の昭和27(1952)年に「高松宮賜杯競輪」と改称。さらに2年後の昭和29年に「高松宮・同妃賜杯」となり、以後、女子競輪がなくなる昭和29(1964)年までこの名称で行われた。
 その間、昭和29年から「宮杯」を3連覇した中井光雄(日本名輪会会員)に前述の佐藤与吉氏から「我が家に」と誘われ、中井は琵琶湖の東岸から西岸に住む佐藤家の2階に転居して比叡山などで練習に励んだ。
 彼はある日の早朝、小雪の積もった山道で自転車のタイヤの跡を見つけ、翌日、早めに比叡山に行くと再びタイヤの跡があった。誰がこんなに早い時刻から雪の中をと思っているうちに、業界最高の1,341勝を記録した京都の松本勝明が雪の中でも練習した痕跡だと分かった。中井は松本の早朝練習に刺激されて3連覇を達成したのだと思うのだがいかがなものだろう。
 だが、こうした話題を跳ね返す大きな悲劇が昭和62(1987)年2月3日に起きた。病気静養中の高松宮様が薨去(こうきょ=ご逝去)されたのだ。競輪界は、「妃殿下のお悲しみはいかばかりであろうか」と哀悼の意を示し、同年6月4日、稲葉稔滋賀県知事、山田豊三郎大津市長、久保忠雄近畿自転車競技会会長らが高松宮邸に赴き妃殿下に宮杯の存続をお願いした。
 妃殿下はその時、「競輪は社会にどのように貢献しているのですか」と聞かれ、稲葉知事らが詳しくご説明したところ、「今後も社会に貢献するために努力してください」と言われて存続することになった。その後、平成元年に滋賀県は競輪事業を大津市に禅譲し、同年から大津市の単独開催になった。
 そうした動きの中で競輪場の特別室に高松宮様の遺影(左上の写真)を掲げ、「日本名輪会」の総会後に記念撮影などをされたこともあった。
 歳月は流れ、高松宮様が薨去されて17年後の平成16年12月18日に妃殿下が92歳でご逝去されたが、ご生前中「癌(がん)の撲滅」を願い昭和43年に「公益財団法人高松宮妃癌研究基金」を設立された。その思し召しを継いで寬仁親王殿下が「同基金」の総裁になられ、それをご縁に競輪界では平成4年に「寬仁親王牌」が前橋競輪場で行われ、同6年から特別競輪として開催されている。
 その間、高松宮両殿下に仕えておられた佐藤進・宮務官(現・参与)という人が両殿下の遺志を継いで懸命に努力しておられることも記録しておかなければならないと思う。
 話は長くなったが、妃殿下がご逝去された後、私は自分の身分もわきまえず、琵琶湖競輪の当時の大谷修所長に「左の写真のように宮様だけではお寂しいので妃殿下のお写真も」と進言。それが佐藤参事に伝わって両殿下の写真がかかげられ、佐藤参与を挟んで右が大谷所長、左に私も入れていただいて撮影してもらった嬉しい思い出の写真である。
 2枚の写真は前回も掲載したが、コロナに関する話が多く改めて掲載させて貰った。そのため原稿が長くなったが、今の願いは18日に開幕する和歌山競輪の「第71回高松宮記念杯」が予定通りに始まり、開催を待ち望んだファンの皆さんに喜んで頂きたいと思うだけ。それだけを期待して開幕を待ちたいと思う。
 筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。