月刊競輪WEB|KEIRIN.JP
今回もコロナ撲滅を願う
2020年も間もなく終わるが、残念なことに今年は一度も競輪場へ行くことが出来なかった。そればかりか、兵庫県西宮市で暮らしながら、自宅から20~30kmの所にある私の出身地・大阪市へ行くことも控えた。
原因は「コロナ」の怖さを恐れてのことだが、観光地や飲食街などの客足は減り、空港、鉄道、プロ野球、大相撲などにも甚大な影響を及ぼしている。
競輪も例外ではない。最初に開催そのものを中止した所。これに続いて7車立ての競輪。それも観客の姿のない「無観客」で行われた。その風景を撮影したかったが、ファンの皆さんが観戦できないのにと思って遠慮した
しかし、これだけ大きな問題になっている中で競輪界はよく頑張っていると思う。レースでは7車立てが増えたが、7車立て,9車立てには関係なく、競輪では激しい競り合いもあれば、団子状態になってゴールに駆け込むことも多い。そんな状態の中でコロナとも戦っているのだが、目的地の競輪場へ着くまでの交通機関内でも精神的な不安が多いことだろう。
それだけに競輪の施行者や現場担当員らもかなり気を使われるだろう。古い話だが現役記者として働いていた30年ほど前、近畿管内の競輪場で選手が到着した後の行動を見学させてもらったことがあつた。
彼らは最初に選手管理の部屋へ行って貴重品や電話機を預けた後、検車課で自転車の検査を受け欠陥のないことを確認してもらう。それが済めばバンクに飛び出して思う存分練習して初日のレースに備える。その後、宿舎に移るのだが、部屋は4人部屋で中央に廊下があり、両側に上下2段ベットが置かれ、彼らはここでゆっくりで休んで初日のレースに備える。
現在もそれに似た状態だと思うが、問題は今後どうなるかだ。7車立ての場合は9車立ての時と異なり、出場選手が少ない分だけ宿舎はゆったりしているだろう。しかし、日ごとにコロナ患者が増える現状から見て将来のことが気になる。何とかして1日も早くコロナから脱したいものだ。
だが、厳しさの中に明るい話もある。それは車券の売上額が好転しつつあることだ。理由は無観客になっても電話やインターネット投票者が徐々に増え続けているからだという。
その理由は、9車立ての場合、3連単で買える車券は504通りもあるのに、7車立てなら半分以下の210通りなので、的中率が良くなる。そのため、狙いが的中した時の配当金は低くなることが多いが、504通りの中からあれも買いたい、これも買いたいと迷うより気持ちも楽になるだろう。
競輪担当として新聞紙上に◎や〇印を付けていたころは、毎日、緊張して現場(競輪場)へ通ったものだが、現役を退いて30年が過ぎた今、テレビなどでのんびりと競輪を見ながら昔を懐かしむ楽しさ。これだけは競輪ファンの皆さんにぜひとも味わっていただきたいと思う。
なぜ、こんな話を持ち出したかというと、去る12月12日、青森県周辺で震度4前後の地震が発生した。その瞬間、同県の坂本勉(57期生)を思い出して電話した。10数年ぶりの電話だが、私のことを覚えていてくれ、地震の被害もなく丁寧に応対してくれた。
坂本には思い出が多い。初めて会ったのは昭和57(1982)年にイギリスで行われた世界選手権大会を取材した時だった。当時、坂本はアマチュアで、2年後の昭和59年、ロサンゼルス・オリンピックで銅メダル獲得という大きな看板を背負い、昭和61(1986)年5月にプロ入りした。
坂本の強さにファンは驚いた。同年6月の名古屋から11月の松阪にかけて35連勝したのだ。当時、連勝記録では16期生の須田一二三(岐阜)の37連勝が際立っていたが、坂本の強さにファンはどよめいた。余談だが、その坂本を相手に平成元年(1989年)5月、神山雄一郎が別府で記念競輪を初制覇して檜舞台に躍り出たのも約30年前の遠い昔の思い出だ。
話を坂本に戻し、別府で神山に負けたレースの3カ月前、つまり平成元年の2月、坂本は奈良記念で優勝した。その直後、選手管理の職員から長男が誕生したことを聞かされ、こぼれるような笑顔で青森へ帰って行った。
その後も坂本は大勢のファンを魅了したが、平成2年11月、小倉競輪祭で初めて失格した。特別競輪で失格すると次の特別競輪は欠場という規則に従い、翌平成3年の高松オールスター競輪を制覇して復活したが、平成5年6月、富山で「記念競輪30回目の優勝」を達成して以来、残念ながら爆発的な成績を残すことなく平成23年6月に平競輪場で引退した。
それと同じ日、長男の貴史が京都向日町で「松本勝明賞」を制覇した。世の中にはこんな偶然もあるのだなと思いながら息子の表彰式の笑顔を撮影した話もしたが、「ファンの皆さんによろしく伝えてください」と言って喜ぶ父親の声は30年前と同じだと思いながら別れを告げた。
別件だが、10月ごろからカメラとパソコンが故障。そのため、今回は写真を掲載できず、新しいパソコンも使い方が難しく原稿の出稿が遅れたことをお詫びしながら「良い年をお迎えください」と言わせていただきたい。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。