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競輪選手100人の軌跡を出版
 前回は兵庫県の甲子園球場の近くにあった西宮競輪場や甲子園競輪場などを紹介し、古い記録を見ながら周辺に競馬場や飛行場があったことにも触れた。
 その現場を取材に行く前、岩手県の加藤善行OB(29期生)が「古い選手の話を紹介するのも興味深い」と言ってくれたのにヒントを得て「競輪選手100人の軌跡」(左下の写真)という本を出版させてもらうことにした。
 題材はすぐに決まった。以前、競輪関係の月刊誌に「私の見た100人の選手たち」という記事を連載。それを本にするため、同じ兵庫県西宮市内で「あざみエージェント」という印刷会社を経営する冨上朝世という人に相談した。
 その人は競輪専門紙に勤務した経験があり、「高知の怪物・山崎勲」という記事を読んでもらった直後、「1冊の本に」と言ってくださった。最初の記事の内容は次のようなもので、以下は敬称を省略して出版に至る経過説明をー。
 それは1960年代のことで、当時は本州と四国を結ぶ高速道路はなく、岡山県の宇野から船で高松に渡り、高松から国鉄(JR)土讃線に乗車。高知駅の少し手前の後免(ごめん)という駅の近くに山崎勲選手が建てた「土佐希望の家」という重度障害児の収容施設を取材した。
 彼は子供のころに父親を亡くし、自転車店で働きながら夜間高校に通学していたが、競輪選手募集の看板を見て昭和25(1950)年にプロ入り。3年後の第8回ダービーの決勝戦では優勝した中井光雄に次いで2着に入線。山本清治、松本勝明、松村憲らの強豪より先着するほどの選手になった。
 その後、昭和38(1963)年に生まれた3番目の男の子が脳性マヒで重度の障害児になり3歳で天国に旅立った。両親の落胆は想像を絶するものだったと思うが、我が子の霊を慰め、同じような病気で苦しむ子供と家族のため、山崎は競輪関係団体をはじめ大勢の人々の支援を受けて障害者施設をつくった。
 という話を手始めに100人の選手を取り上げ、記者生活の思い出を500冊の本(左上の写真)にし、掲載した選手や関係者に郵送した。その途中で3月6日、松本勝明OBに感想を聞かせてもらおうと思って自宅に電話した。
 応対してくださったのは奥さんで「今、息を引き取りました」とのこと。偶然とはいえ予想もしない訃報に飛び上がるほど驚き、お悔やみの言葉を述べて失礼し、2日後、新聞に悪性リンパ腫のため93歳で亡くなったと報じられた。
 葬儀は家族だけで行われたそうだが、亡くなる前日、奥さんは病床に横たわる夫の耳のそばで私の書いた「松本勝明」の部分を読んでくださったとのこと。
 そして、去年(令和2年)、滋賀県の中井光雄OBが亡くなった時は、京都から北の方角にある中井家に向かって手を合わせて拝んでいたということも。
 中央の写真は、松本OBが日本名輪会会長だったころのもので、右から2人目が松本会長。5人目が中井光雄OBで当時のことが懐かしい。
 続いて女子の田中和子さんも紹介しよう。女子競輪は昭和24(1949)年にスタートし、彼女は翌25年9月に取手競輪でデビューし1転③着の成績を残した。2日目に転倒して決勝戦に進出できたのは不思議だが、当時、大学卒の月給が約9000円だったころ彼女の最初の賞金は2万円だったとか。
 それはともかく、田中選手は70連勝し、当時、69連勝した大相撲の双葉山をしのいだといって話題になった。また、彼女は昭和38(1963)年の第5回日本選手権の決勝戦で1着失格になった高橋恒(ひさし)選手と結婚したが、翌39(1964)年に女子競輪は廃止された。
 それから20年ほどして同家に一度、お邪魔したことがあったが、今回は自作の本を持参して兵庫県西宮市内の同家を探し回って訪ねた。その時、娘さん夫妻やお孫さんもいて「失礼ですが、もう少し」と言われて翌日、数冊の本を持参したところ、田中選手が手にした優勝カップを5つも頂戴した。
 右端の写真がその一部だが、これを現在の女子競輪の優勝者に贈呈するか。それとも、100人の選手の本の表紙の下に「帯付け」を書いてもらった「日本競輪選手養成所」の滝沢正光所長にゆだねるか。想像もしなかった優勝カップを眺めながら将来のことを考える日が続いている。
筆者の略歴井上和巳昭和10年(1935)年7月生まれ大阪市出身同32(1957)年デイリースポーツに速記者として入社同40(1965)年から競輪を担当以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。