月刊競輪WEB|KEIRIN.JP
新聞に競輪関係の記事が減少
世界中に大きな被害をもたらす「コロナウイルス」の怖い話。日本も日ごとに感染者が増え、ゴールデンウイークを目前にした4月25日から5月11日まで、東京、大阪、京都、兵庫の4都府県に緊急事態宣言が発令されるほど緊迫した状況になった。
兵庫県西宮市で暮らす我が家の周辺も大変で、緊急事態宣言が発令された日から町の中を歩く人が急に減った感じがする。
それどころか、緊急宣言が出た直後の4月27日、新聞などが国内でコロナに感染して死亡した人が1万人を超えたと報じ、庶民は自宅から外出するたびに身が引き締まるような状態になってきた。
私も昔、非常に怖い体験をしている。最初は76年前の「終戦」の年(昭和20年=1945年)だが、大阪に住んでいた私は国民学校(現在の小学校)3年生の時、戦火を避け、両親と別れて大阪と奈良の境にある「生駒山」の中腹の寺院に「集団疎開」をさせられた。
当時、都会の3年生~6年生が疎開の対象になったが、同年3月13日の夜、対戦国による「空襲」で大阪市内が真っ赤に染まるほど焼き尽くされるのを見て、幼い私たちは先生と共に正気を失うほど泣き続けた。
火災といえばその1年ほど前、大阪で有名な「通天閣」が丸焼けになり、火の粉が衣服に飛んで来た怖さも覚えているが、今回のコロナの恐怖など人生では予想外な事件に遭遇することがある。
話は横道にそれたが、今、競輪界は大きな流れに巻き込まれている。言うまでもなく「コロナウイルスの変異株拡大による緊急事態宣言」が東京・大阪など4都府県に発令されて緊張感が一層高まったことだ。
それを新聞などで調べると緊急事態が発令された4月24日の東京の患者は759人、大阪は1162人、京都は130人、兵庫は567人だった。それが5日後の29日、東京は925人、大阪は1260人、京都は140人、兵庫は600人と増え続けているのだ。
私ごときものにその原因が分かるはずはないが、これだけ警戒しても感染者が増える現実に国民はどう対処すれば良いのか。考えようによればまさに1日、1日が地獄へ落ちて行くような不安な毎日である。
それを防ぐため政界も経済界も必死になって考慮しているが、競輪界も非常に早い段階から防御対策に取り組んだ。その中でも最も気を使ったのは「集団で行動することの多い選手」をどう守るかということではないかと思う。
例えば各地の選手が東京や九州の競輪場に出走する時、同郷の選手は一緒になって新幹線か飛行機で移動することが多いだろう。そして、目的地の競輪場へ着いた後、真っ先に身体検査や競走用の自転車に異常がないかどうか調べられる。
その後、食事、入浴などを済ませ、1室4人程度の宿舎で泊まり、3日制のレースなら前検日を含めて3泊4日、6日制の特別競輪なら6泊7日を一緒に過ごす。その間、自転車競技会の職員(現在はJKA職員)が競技運営にあたり、落車事故などが発生した場合の医師の待機、食事や宿舎の世話をする人など万全の態勢でレースの運営に加わっている。
そうした努力にもかかわらずコロナは増えていく。競輪場では選手の控え室、走路(バンク)、食堂、寝室など総てが同じ顔ぶれで過ごすので1人でも患者が出ると大変なことになる。それを防ぐため競輪界は必死になり、レース開催の中止、6車立て、7車立てのレースや観覧席の無観客制度、場外車券発売の一時停止など様々な手を打っている。
そうした中で「5車立て」のレースをよく見るが、今までなら直ちに追加選手を探して6車立てに戻した。だが、今では追加選手の体調検査などに時間がかかり5車立ての方が安全ということになったのだろう。
6車立て,7車立て制度が増えたのは、選手たちが食堂や選手宿舎で少しでも幅広く使えるようにするための配慮だと思うが、私たちのような一般人にはどうしても排除することの不可能なコロナ。これは政府や医学関係者に総てをゆだね、1日も早く解決の道を開いていただくしかないが、今、競輪界で一番心配されているのは5月4日~9日に京王閣で開催される「日本選手権競輪」が無観客で行われることだ。
もちろん、コロナに関する不安は競輪だけではなく、大相撲夏場所も前半の3日間は無観客といい、プロ野球も苦慮しているし、さらには今年、日本で開く予定のオリンピック開催も重大な岐路に立たされている。
これらをいかに乗り切るか、それが最大の問題になるのだが、今回、どうしても知りたかったのは「スポーツ新聞」の競輪欄がどうしてこんなに少なくなったのか。そのことを書きたくて題字を大きな文字にしたのだが、次回はこの件にスポットを当てさせていただきたいと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。