中部の司令塔と呼ばれた男 濱口高彰
2020年12月をもって選手を引退した濱口高彰氏は、1997年第50回日本選手権競輪(GI)でGI初優勝を飾り、そして2001年第17回読売新聞社杯全日本選抜競輪(GI)も制覇。当時トップクラスで活躍する中部地区の一翼を担いました。またサマーナイトフェスティバル(GII)優勝、記念競輪優勝16回とかなりとてつもない成績を残しています。
その成績とは裏腹に、いつもニコニコしている姿は「はまちゃんスマイル」と呼ばれ、当時の濱口氏の鋭い差し脚とは対照的な雰囲気が魅力的な選手でした。
2回GIタイトルを獲った偉大な選手だった濱口氏に、競輪人生を伺いました。
中部の司令塔はポジティブシンキング
選手になったきっかけから聞いてみた。
-まず、選手になったきっかけはどのような事でした?
「父親が競輪を好きで、その影響です。元々、僕は名古屋出身だったんですけど、公立高校で自転車部がなかったし、岐阜にはあったので、1人で岐阜に来たんですよ。それで岐南工業高校を受けて、そのまま選手を目指しました」
-高校の時は、どの種目がメインでしたか?
「僕はどの種目でも走れたんですけど、一応、短距離ですね。キャプテンだったんですけど、そんなに何もせんでも準決勝までいけていました。でも、高校時代に燃え尽きていないので、逆に競輪選手になってから練習できました(笑)。競輪学校の試験の1000mタイムトライアルもやったことがなくて、一発でパッとタイムが出ちゃいました(笑)。競輪学校の時も下の方のクラスでやっていたんですけど、卒業記念レースでは決勝に乗って、そういうところはしっかり乗って(笑)、優勝はできなかったけど4着には入ってました」
-デビューしてからは?
「根性論だったので、日本一の練習量をしていれば日本一になれるんじゃないかっていう勝手な思い込みで。その頃、滝澤(正光)さんが1日乗り込みで100キロ、200キロ乗っているって聞いたら、それ以上に乗らなきゃいけないと思って、普通に1日200キロくらい乗っていましたね。普通に、朝4時とかくらいからやってました。そうしたら勝手に結果がついてきました。競輪学校時代も肉離れをしちゃって、そこまで練習してなかったんですけど、それも逆にそこまで練習に入れ込まずよかったかもしれないですね。選手になってから練習ができました」
-周りからはどうみられていたんですか?
「何を考えているのかわからんって言われました(笑)」
-デビュー戦はあまり成績よくなかったんですね。
「はい、先行だけをしていました。僕らの時は新人だけの戦い(新人リーグ)だったので、先行して落車したとか、そういうことばっかりしていたので、赤板から先行しているだけだったですね」
-どのくらいそれを続けていました?
「2年くらい先行が続いたんですけど、ずっとバック線だけ取ってこいって言われていたので。それで脚力がついてきた感じですね」
-学校の時に練習してなかったのがよかったんですかね。
「デビューしてからは日本一練習していたと思います。でも、今の科学的な練習とは真逆な練習方法でしたね(笑)。朝4時くらいから乗って、午前中に200キロくらい乗って、午後はバンクでもがいてみたいな感じでしたね」
-その時の練習パートナーは誰でした?
「誰もそんな朝早くから付き合えないっていって(笑)」
-いつぐらいまでそういう練習をしていたんですか?
「23、24、25くらいまでは。練習のし過ぎかわからないですけど、目の病気になってしまって、それでそういう練習は控えるようになりました。何が原因かわからないけど、目の血管がつまる病気で、血栓ができて破裂しちゃうと失明しちゃうので。ただ、炎天下で乗りっぱなしになっちゃえば、そうなりますよ(苦笑)」
選手生命を断たれる危機から一転して
中部の総帥となる
-さて、タイトルまではどうでしたか?
「獲れると思ってなかったので、獲っちゃったっていう感じですね(笑)。でも、(初)タイトルを獲るのは遅かったんですよ、29歳だったので。
その時は、若い頃から調子はずっとあがっていたので、いつか獲れるなっていうタイミングが自分に舞い込んできただけのことであって。岐阜の選手が獲っていって、僕が獲ったことによって『濱口さんが獲れるなら』っていう錯覚ができたみたいですね(笑)。でも、中部の皆が獲ってくれたので嬉しかったですね」
-濱口さんの『中部でタイトルをたらいまわし』って言った通りになりましたね。
「冗談半分で言っていたら本当になりました(笑)」
-あの頃の中部ってすごく強かったですよね。
「そうですね、なので一緒にやっているとおのずと脚力もついていきましたね。モチベーションも違いましたね」
-一緒に練習したりしたんですか?
「合宿とか、同年代の選手ばかりだったので練習も遊びもよくやっていました」
-その当時、誰と一緒にやっていたんですか?
「山田(裕仁)やヤマコウ(山口幸二)とか、他にも中部には海田(和裕)とか、馬渕(紀明)、小嶋(敬二)がいましたからね。皆で合宿に行ったり、もがいたりしました。一緒に走っていて、強い連携感がありましたね。その当時、吉岡稔真や神山雄一郎が強過ぎて、特に吉岡ですけど、束になってかからないと勝てない状態だったので、それで結束が生まれたのかもしれないですね」
-当時の作戦は濱口さんが考えたのですか?
「たまたま、僕が一番年上だったので。どうしましょうって聞かれて、こういう風に走った方がいいんじゃないかって答えてました。それで、今も競輪が好きなので、そのまま業界(競輪記者)に入った感じです。昔から全レース見ているので、人のクセや性格などを読む力はあったのかと思いますけど」
-作戦はかなり考えていたのでしょうか?
「考えますけど、結局はシンプルな形になりますね。考え過ぎちゃうと変になるので」
-特に考えることは?
「相手が嫌がることをしようっていう、これをされたら困るなっていうことを思い浮かべてですね」
-それで、中部の司令塔っていうように呼ばれたんですね。
「って勝手につけられました(笑)」
-中部全盛期をむかえた感じがありましたね。
「嬉しかったですね。自分がというより周りがタイトルを獲ってくれるのがまた嬉しかったです」
引退を考えた時
そして現在は新聞記者
-引退を決意されたのはどうしてですか?
「もう何年間も考えていて、本格的に辞めようと思ったのは3年前で、ボロボロになるまでやってもよかったんですけど、ちょうど下の子が大学を卒業するので手が離れるから、その時かなと思って。でないと80歳、90歳までやっちゃうから(笑)、身体がきついので」
-今は競輪記者として?
「はい、ありがたいですね。皆さん、評論家なんですけど、僕は記者なんで(笑)。(きっかけは)たまたま知り合いの人からどうだって誘われて、それで、僕はチャレンジのレースから上のレースまで(全部)見るのが好きなので」
-今の競輪のどのようなところを見るのが面白いですか?
「やはり展開を見るのは面白いですね。あとはお客さんの反応ですね」
-新聞ではどのようなことを書かれるのでしょうか?
「普通に予想を立てて、岐阜新聞で書いてます。『〇〇選手がスピードを活かして捲る』とかって書いていますね」
-それは濱口さんの経験を活かしてですか。
「はい。ヤマコウ(山口幸二)も書いているので2人で話していたんですけど、『大変ですね』『いや別に、普通じゃないか』って(笑)。普通に淡々と全レース書いています」
-コラムはないんですか?
「ないですよ。スポーツ紙ではなく普通の岐阜新聞なんで」
-ぜひ書いて欲しいです。
「書く機会があればね(笑)」
今の競輪を考察
-濱口さんがいた全盛の中部と今の中部を比べてどうですか?
「レース形態も違いますからね。皆さん、情報量も多いし、知識も豊富なので、大変な時期だと思いますよ。ネットですぐに動画も見れるし、目で観察してという感じではなくなってしまったので。スピードもあがっているし、大変だと思いますよ」
-今の競輪を濱口さんはどうとらえていますか?
「スピードもあるし、新しい魅力があっていいと思いますけど、競輪は9車の方がいいのかなとは思いますね。7車は7車でまた魅力ありますけど」
-作戦を考えたりとかっていうのは9車の方がいいですか?
「9車の方がいいですね。7車だと個々の戦いになってしまうので、レースが単調になってしまいますからね。でも、お客さんには当てやすくていいという方もいますしね。でも、9車の方が作戦とか立てて言い方は悪いですけど弱い選手が強い選手にある程度勝負する形になりますからね」
-となると7車ばかり走っている選手が9車を走るのは大変ですか?
「全然違うと思いますよ。あたふたしちゃって、仕掛けるタイミングを逃してしまうというのはS級に上がりたての若い子に多いですね。ワンテンポずれちゃうので、例えば先行選手なら踏まなきゃいけないところで踏めてないので、それは行かれてしまいますよ。(9車なら)そこを空けていたら内からすくわれるぞっていうのは、7車なら内からすくわれないですからね」
-そういう選手は軽い印を付けるのでしょうか?
「そこまで軽くはしませんけど、車券は買いづらいです(笑)。ラインでやっぱり考えてなくて、個々の走りになるので。番手選手も3番手、4番手の選手のことも考えて走るけど、7車6車だと考えても番手くらいまでのことしか考えてないからね」
-そうすると仕掛けるタイミングとか変わってくるんですね。
「全然変わってきますね。ラインだったら味方の3番手の選手のためにコースもしっかり空けないといけないとかあるんですけど、(7車だと)そういうのもなくなってしまうので、9車で走った時に3番手についてくれている人の気持ちはわからないっていう風になってしまうので、ちょっと早めに仕掛けようとかなくなるので」
-9車しか走ってない選手のところに7車しか走ってない選手が混じるとぐちゃぐちゃになりますか?
「はい、実際に僕らも走っていて大変でした。7車なんで、踏んでほしいところで踏んでくれなくて、なんで踏まないの?っていう感じで、車間を空けて、ゴールで自分が届く位置から踏んでいくとか」
-ついていて一番困るパターンですね。
「そうですね」
-お客さんも一番困るパターンですね。
「はい、でも、そういう形になってしまいますよね。機材も色んな形があって、タイムも出るようになったので、ギアもかかっているし、かかっちゃいますからね」
-なかなか難しい時代になってきたんですね。
「単調といえば単調なんですけど、トレーニングも僕らの時の根性論と違ってウエイトとか色んなことをしなきゃいけないので大変ですよね」
タイトルを獲って変わること
-濱口さん、タイトルを獲って変わったことはありましたか?
「僕は何も変わりませんでしたが、周りが変わってきただけですね(笑)。そうやって周りが強くなってくれて、本当によかったです。レースに対しての姿勢も、ただ参加しているだけだったのが、獲りたい気持ちが全面に出てきて意識が全然変わっていきましたね。今の中部の選手たちと話していてもそういう意識が感じられないので、もっとそういうのを出していかなきゃいけないぞとは言っているんですけどね」
濱口氏の注目の選手
-今、濱口さんが一番注目している選手は誰ですか?
「ありきたりになってしまうかもしれないけど、山口拳矢ですね。ヤマコウの息子なので自分の子どものように可愛いので。岐阜で行ったルーキーチャンピオンレースで優勝してくれたのもすごく嬉しかったですね」
-拳矢選手のレースを見ていてどうですか?
「ほっといても強くなるでしょう」
一番印象に残ったレース。そして大好きな競輪
-濱口さんの一番印象に残っているレースは何ですか?
「半年くらい病気で寝たきりだったんですけど、その年の暮れの岐阜記念を優勝できたことですね。もう選手をやめなきゃいけないと思っていたところから、まさか獲れると思ってなかったですね。一回辞めることも考えたので、だから淡々としているのかもしれないですね。また休んだことによって練習に集中できたし、走れる喜びもありましたし、そういうのがあったから今があるのかもしれないですね」
-濱口さんは競輪大好きなんですね。
「大好きですね! 今でも嫁さんに『ちょっと競輪場に行ってくる』って言うと『あなたは全く生活変わってない』って言われます(笑)」
-自転車は乗るんですか?
「もうそろそろ暖かくなってきたんで乗ろうかなと思っています。僕の自転車は皆が持って行っちゃうので(笑)。この間も、島野浩司が僕の自転車を車輪もついたままそのまま持っていきました(笑)」
-乗るのはロードですか?
「僕はロードでも何でも乗るので。まぁピストはバンクなので乗ることはまずないでしょうけど、ロードは乗りたいですね。筋力が落ちちゃうので」
-乗らないと感覚的に忘れてしまいますか?
「忘れちゃうけど、逆に離れたからこそ見える部分もありますね。こんな自転車の漕ぎ方があるんだとかペダリングはこれが正解なのかともあるんだとかって見える部分もありますね」
-シニア選手として自転車競技に出ないんですか?
「出ちゃうかもしれないですね(笑)」
これからの目標を聞いた
-これからの目標はありますか?
「若手の育成もしていきたと思いますし、何か手伝うことがあれば、若手に言われればバイク誘導もしますし、そういう感じで若手も育てていきたいです。それで中部はもちろん、競輪界が盛り上がるようにしていきたいですね」
今の仕事量はどれくらい?
-どのくらい書くんですか?
「岐阜、大垣で発売しているのは全部ですね。最初は慣れなくて大変でしたが、もう慣れてきたので大丈夫です(笑)。遅い時は夜11時、それから選手のコメント待って、それから印を打って、並びを整えてとかですね」
-大変ですね。
「いや、趣味が仕事になったのでいいですけどね」
-お休みは?
「休刊日なんですけど、それでも競輪場にいるので変わらないですね(笑)」
-すごいですね。
「選手の時も練習は休みがなかったので同じと言えば同じですね」
-今の濱口さんの趣味は?
「本当に競輪ですね(笑)。今もお客さんに温かく受け入れてもらっていて、記者の立場になると余計にファンと接することも多いですからね。楽しくやっています」
-ファンの方にメッセージをどうぞ。
「漢字の競輪から、競技のケイリン、ローマ字のKEIRINになりつつありますけど、その変化、新しい選手も出てきているので、できたら本場で見てほしいですね。今はネットで見ている方も多いけど、生の競輪を楽しんでほしいですね」
濱口氏の本質はこれだ!
-濱口さんが一番苦労したことは?
「何もないです(笑)。本人は何も苦労したとは思っていないので(笑)」
-病気の時は?
「それも楽しんでいたので。新しい方と知り合えたり、新しい視野が増えたりしたので、病気にも感謝しています」