堂々の3日間だった。「力を出し切って、それでも抜かれたらS級に上がっても通用しないということ。先行することしか考えてなかった」。S級特別昇級をかけて、冬の訪れが迫る海からの寒風が吹きすさぶ19年11月中旬の別府ミッドナイトに挑んだ。
簡単には勝たせてもらえない。準決は同じ徹底先行相手に赤板から突っ張る2周先行。番手はS級の先行選手として鳴らした森田康嗣(北海道)がタテ足で迫るが振り切った。決勝戦はさらに試練が待っていた。115期のルーキー伊藤颯馬(沖縄)に地元の大西貴晃(大分)と並び2段駆けが想定される2分戦だった。その並びをみてさすがに九州勢に「S級に早く上がらせてくださいよ」と少し弱気な言葉もこぼしたが、レースはあくまでも強気だった。伊藤が強引に前前に踏んで先頭に立とうとするが抵抗。後ろの大西は離れると番手にはまる。それでもよしとせず踏み上げて主導権を取り返しそのまま押し切った。結局3日間バックを譲ることなく文句なしのS級特昇を決めた。
神山雄一郎を生んだ自転車競技の名門・作新学院の出身だ。しかし最初からプロレーサーを目指していたわけではなかった。中学までは野球、ソフトテニスを続けていたが高校では何をするか迷っていた。ただ競輪ファンだった父に薦められて自転車競技部の門をたたいたら、はまった。強豪で練習はきつかったが「今まで1番夢中になれたし、それを職業にしたかった」と卒業後の選択は迷わなかった。高校の部活動でも、養成学校時代もプロデビュー時も最初から頭角を現すタイプではなかった。不器用でもこつこつと技術を身につけて感覚をつかんでいく。そうして地力を付けてきた。チャンレンジからの特進も時間はかかったし、上がったA級1、2班でも当初は大敗を繰り返し苦戦した。「これが自分のやり方だと思う。時間をかけた方が身になる」と開き直れた。
S級デビューの高松は7、6、2着。続く松山は9着3本を並べた。でも「今はS級の戦い方を経験する時期。勝負は先」と意に介していない。「目標選手はいません。〝栃木の先行選手なら眞杉〟と言われるような選手になりたい」。令和2年はスケールの大きなレースで全国にアピールする。