鈴木陸来 静岡 S級2班
小さな巨人の進撃
「何もできずに終わりました」。20年5月デビューからその年の暮れに彗星(すいせい)のごとくS級に駆け上がり、迎えた21年4月3日、四日市での初GIII戦は、初体験だった9車立ての戸惑いもあり3、7、4、6着の結果。強豪が集うS級戦士たちに早めにたたかれ、後退、流れ込み、仕掛け不発…。突っ張り先行で粘った3日目4着が辛うじて納得できるレースでほろ苦いものに終わった。それでも「これからが始まり。経験を積んでいって強くなればいい」。多くは語らないがシンプルにメンタル面でサポートしてくれる師匠(新田康仁)の言葉を胸に染みこませた。
父がモトクロスのプロ契約選手だったこともあり、プロスポーツに憧れた。ただひと握りのトップ選手しか食っていけない上に危険とも隣り合わせの厳しい世界で息子が自身の競技をすることを父は望まなかった。長男として生まれ「よくぞこの陸に来てくれた」と陸来(りっく)と名付けた親の愛情だった。ただ中学生の時に父とモトクロス仲間で駆けつけたモトクロスライダーだった猪俣康一が大観衆の中でゴールを駆け抜けた13年の立川ヤンググランプリを見て競輪選手を目指した。
自転車競技部のある高校に入り、大学も強豪の法政大学に進んだ。在学中に日本競輪選手養成所に合格。競走成績は39位と目立つことはなかったが、素早く主導権を奪うスプリント力とトップスピードの持続力を駆使してスピード出世に結びつけた。
20年暮れから始まったS級の戦いは静岡、いわき平と果敢な仕掛けで見せ場を作った。しかし警戒された3場所目の宇都宮の内容が悪くて落ち込んだ。同期のトップ9が集った3月大垣のルーキーチャンピオンでは法大の先輩にあたる寺崎浩平―青野将大のラインの先導役を買って出たが勝負どころの前で落車。勝った山口拳矢と人気を2分していた寺崎も巻き込んでしまった。「さすがに落ち込みました。それでも師匠が『すべてが経験。引きずるな』と言ってくれて…。今は前向きに切り変えられるようになりました」。
162cmと小柄でも同県に移籍してきた深谷知広や野口裕史のような先行主体の大型先行を目指す。「体格をハンディと思ったことはない。後ろの人には迷惑をかけるけど(笑い)。その分、横に自分が太くなればいい」。
21年3月31日には大学の同級生と婚姻届を出した。新しい伴侶の助けも借りて、小さな巨人の進撃が始まる。
四日市競輪場より