バンクのつぶやき



 あと2年すれば1948(昭和23)年に競輪が生まれて70年になる。この長い年月、関係者は「全国の人に喜ばれる競輪」を目指して真剣に取り組み、戦後から今日まで日本の発展に大きな役割を果たした。創設当時、選手たちには「何期生」という期別はなく約5500人全員が「前期生」といわれ、3年後の1951(昭和26)年にデビューした選手から1期生、2期生、3期生―と呼ばれるようになった。
 それから10数年が過ぎ、静岡県・修善寺の近くに完成した新しい日本競輪学校から1969(昭和44)年に初の卒業生(26期生)が巣立ち、競輪の新鮮な息吹が全国に広がり娯楽性も一段と高まった。その間、男子はA級とB級、女子はB級扱いだった(女子競輪は64=昭和39年に廃止)が、26期生が巣立つ2年前(67=昭和42年)から、A級は1班~5班、B級は1班と2班に分割された。こうした流れに従って「競走得点制度」も充実。競輪を知らない人でも「得点上位」の選手を軸にしてレースを推理し、車券を買うと的中する度合いが高いといって喜ばれたものだった。
 また、26期生がデビューした昭和44年に、岸和田・オールスター競輪の決勝戦が日本で初めてカラーテレビで放映されたが、そのころから機械化も順調に進み、競輪場の美化運動、場外発売、8車立てで実施していた競輪場も9車立てになるなど、ファンの要望の高まりとともに競輪は黄金時代に突入した。その途上で大きなニュースが飛び出した。1965(昭和40)年12月13日、京都の松本勝明が後楽園で史上初の1000勝を達成したのだった(左下の写真=プロサイクルリストから)。
 松本は子供のころ医師になりたいと思い、高校を卒業して東京外国語大学の試験に合格。ドイツ語を学んでから医師にと考えていた時、友人に誘われて初めて競馬や競輪を観戦。その時、西宮競輪の優勝戦の賞金が8000円だと聞いて驚いた。当時と現在の貨幣価値は大きく違うが、彼は自転車の愛好者で、医師になるには資本も必要だと思って方向転換。昭和24年6月に鳴尾競輪(後の甲子園=平成14年に撤退)でデビューした。
 初戦は3着、4着、6着だったが、16年後に1000勝を達成。最終的には1341勝に到達し、「競輪の神様」といわれる存在になった。これに続いて大阪の石田雄彦、広島の古田泰久、香川の吉田実、滋賀の中井光雄、福岡の丹村喜一も1000勝を飾り、創成期から昭和40年代の半ばまで全国のファンを感動させた彼らの栄光を称える「殿堂」のようなものをつくってはどうかという話も出た。
 この話は、一時、立ち消えになったが、「ファンの皆さんのお知恵を借り、長年、お世話になった競輪界に少しでもお役に立ちたい」という願いを込めて、平成7年4月、松本勝明を代表として「日本名輪会」を設立した(中央の写真)。会員には1000勝選手(丹村は遠慮して辞退)や、特別競輪を4回以上制覇した大阪の山本清治、千葉の白鳥伸雄、神奈川の高原永伍、福岡の中野浩一ら豪華な顔ぶれがそろい、その後、群馬の福島正幸、京都の加藤晶、栃木の竹野暢勇、福岡の戸上守、さらには佐賀の井上茂徳、千葉の瀧澤正光らも加入。今では「日本名輪会員」のサイン会(右上の写真)や、これら著名選手の名の付いた「冠レース」が各地で開かれている。
 その間、福島正幸は事業家として多忙を極め、中野浩一もJKAの公務の忙しさに追われて退会せざるを得なくなったが、名輪会が生まれて20年が過ぎた今、5人もの会員が亡くなったのをファンの皆さんはご存じだろうか。
 上の写真は、左から古田、竹野、加藤、石田、白鳥の名輪会員と、兵庫の河内正一OB(非会員)の在りし日の姿で、史上第3位の1186勝を記録した古田は平成16年に病死。広島市、JKA、日本競輪選手会は彼の死を悼んで翌17年に広島競輪場の4コーナーに記念碑を建立。地元ファンはもとより、遠来のファンも在りし日の古田を偲んでいる。
 その後、竹野は平成21年10月に病死した。竹野は1955(昭和30)年に岐阜でデビュー。優勝戦で1着失格になった悔しさを忘れずに上位を目指して健闘。加藤は兵庫の南勝明と共に「捲り」という走法の発案者だと聞いた記憶があるが、あと11勝で1000勝になる直前にB級に降級。ここで1000勝を達成してもといって引退したと聞いた。だが、加藤がいつ亡くなったのか私の資料にはなく、もし、ご存じだったら教えていただきたい。
 続いて石田、白鳥に移るが、石田は平成27年11月に死去。これは、新聞などにも掲載され、私も今春の「石田雄彦記念杯」の開催前にデビュー以来の活躍を詳しく紹介させてもらった。その直後に白鳥の家族から「父は2月26日に87歳で病死。死去する前、葬儀及び49日の法要は内輪でという遺言を残し、報告が遅れて失礼しました」という便りが届いた。
 私は愕然とした。JKAが日本自転車振興会といっていたころ「月刊競輪」(雑誌)を発行していたが、数年間にわたって白鳥伸雄、福島正幸、鈴木保巳(福島の師匠で評論家=平成22年に死去)の教えを受け毎月1000行前後の原稿を書かせてもらった。もちろん、群馬の鈴木家には菩提を弔いに行ったが、あれだけ元気だった鈴木師匠も鬼籍に入るとはー。
 もう一人は兵庫の河内正一(右端の写真)のことで、彼は第1回小倉競輪の「実用車部門」で優勝。以後も180cmを超す大きな体でダービーの「実用車レース」(競技種目)を7連覇する偉業を達成。1981(昭和56)年5月23日、松本勝明と同じ日に引退を表明した。引退後、松本は日本競輪学校の名誉教官や名輪会会長になり、河内は選手会の専任指導員として若者が立派に育つのを楽しみに過ごしていたが、平成13年5月20日、名輪会員に匹敵する記録を残しながら74歳で病死した。
 今回は偉大な足跡を残した日本名輪会員と河内正一の死を中心に話を進めたが、その名輪会に燃え上がるような話題が持ち上がってきた。それは、88歳になる松本勝明が会長職を退いて相談役になり、井上茂徳(41期生)が新会長に就任。それに伴い山本清治と中井光雄が副会長、瀧澤正光(43期生)が監事になるという新しい組織になりつつあるという。
 この噂、本稿がホームページに載る前に正式発表されると思われるが、このほかに佐々木昭彦(佐賀・43期生)、坂本勉(青森・57期生)も参入。さらに数名の候補者もいるらしい(上の写真は左から井上、瀧澤、佐々木、坂本の順)。この新組織が実現すれば中年層のファンは改めて名輪会を注目し、若い世代のファンも興味を抱いて競輪の発展に結びつくに違いない。
 その日が1日も早く訪れることを切望するが、7月初旬に81歳になる私は、このところ体調不良で今回の「バンクのつぶやき」を機に筆を置かせていただくことにした。約2年半、本当にありがとうございましたと心から感謝しながらお別れをー。さようなら。
(文中・敬称略)
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 80歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。