月刊競輪WEB|KEIRIN.JP
~競輪は小説より奇なり。小倉競輪祭の吉岡と神山~
競輪が筋書きのないドラマであるとするなら、如何様な筋書きの想を得られるのもまた競輪であろう。競輪は小説より奇なりと申せばいささか大仰になるが、今回は、あっと驚く結末が待っていた小倉競輪祭の吉岡稔真(福岡65期)と神山雄一郎(栃木61期)の数年間をフィーチャーしたい。
1992年(平成四年)の吉岡は、前橋で開催された日本選手権競輪(通称"競輪ダービー")で若きタイトル・ホルダーとなり、いきおいそのままに地元の小倉競輪祭でも戴冠。そこから競輪祭を三連覇とつっぱしることになる。翌年は吉岡一着、神山二着の所謂「力の両立」、翌々年は神山不在の決勝での優勝であった(ちなみに平成四年の決勝にも神山の名前はない)。また、この三連覇の吉岡の車番がすべて黒帽の二番車であったことも附記しておきたい。
1995年(平成七年)、いかに吉岡の膝元とはいえ、これ以上の「独走」は許すまじと神山の「寄り返し」がはじまる。この年の神山はまさに絶好調、大津の高松宮記念杯、青森全日本選抜を優勝、吉岡の居ない(本開催は不出場だった)小倉競輪祭は四連勝の完全優勝であった。翌年には「93年のお返し」とばかりに神山一着、吉岡二着(余談になるが、競輪祭に限らず両名の力車券は他の大舞台でもいくつか出現している)、翌々年は吉岡を六着に沈めた神山の完勝となり、吉岡の三連覇を「原点」まで押し戻す神山の三連覇とあいなった。ちなみにこの三勝の神山の車番は、95年と97年が一番車、96年は九番車である。
1998年(平成十年)の競輪祭は「吉岡稔真VS神山雄一郎」の見出しが各紙におどり、神山の四連覇か吉岡意地の阻止かで競輪界は大いなる盛り上がりを見せた。発表された決勝の車番は吉岡が験の良い大好きな二番車、神山は一番車でも九番車でもない七番車で、微笑をともなう「地元番組」と解したのは私だけではあるまい。
隊列は一周すぎに落ちついて、正攻法に⑦神山雄一郎(栃木61期)がはいり、以下①高木隆弘(神奈川64期)-⑤東出剛(千葉54期)-⑧曾田正一(千葉68期)-④本田晴美(岡山51期)-③児玉広志(香川66期)-②吉岡稔真(福岡65期)-⑨加倉正義(福岡68期)-⑥大里一将(熊本60期)。そこから四周淡々とすすむ(当時は2825メートル七周競走)。あと二周の赤板から④本田-③児玉が上昇し、ちょっとごちゃごちゃしながら打鐘をむかえたが、まだスロー。二人が完全に前団を押さえきったのを見計らうように、あと一周附近から②吉岡-⑨加倉-⑥大里のスパートだ。これ以上ない仕掛けにもおもえたが、やはり⑦神山も強い。苦しい四番手外並走の位置から渾身の捲りを放つと、スッと前走二人を抜き去り、②吉岡の真横まで迫ったのが二センター、たまらず②吉岡が反射的に⑦神山をもってゆくとガシャーン――! 競輪独特の音がドーム・バンクに響き、呼応するように喚声があがった。振られた⑦神山の後輪に⑤東出の前輪が触れ、東出が落車してしまったのだ。
真っ先にゴールした吉岡は右腕を高く挙げる。次は両手、また右手、両手、右手、左手……歓喜のガッツポーズは二周ちかくにわたった。
10Rは審議する旨のアナウンスやテロップが流れてから決定までが長かったのか、わりとあっさりだったのか、時間の長短の感触の記憶はまるっきり残っていないが、「9・6・3」の確定板が点った瞬間のどよめきやら嘆声やらの混ざったサウンドを薄っすらとだが憶えている。
92年吉岡、93年吉岡、94年吉岡と来、95年神山、96年神山、97年神山の翌年だ。それこそ多種多様なドラマを競輪党は胸中に描いたことだろう。そんな画たちのうちにひとつでもあっただろうか。吉岡が、逃げながら、自らの躯で、神山の捲りを止め、その末に「一着失格」なる想など――。
まさに競輪は小説より奇なりの終幕であった。