時代をまたぐボーンヘッド~9つの数字をめぐる長い旅
賭 式
平成期の競輪界に起きた数多ある出来事のなかから、車番式及び3連単の車券導入を最たる変化として挙げるのには反論もあろう。が、とにかく、6つの数字から9つの数字による推理や、長年月関心が薄かった3着の行方にと、平成の競輪党には頭の回路を組み替える作業が強いられることとなった。今回フィーチャーするのは、そんな9つの数字をめぐる、ある男の長い旅の話である。
兆 候
はじめて車番式の車券が発売されたのは平成7年9月、場所は東京郊外に位置する立川競輪場だった。導入後最初の「競輪グランプリ」も当地でおこなわれ、優勝が1番車の吉岡稔真、2着は9番・神山雄一郎であった。"東西横綱"と謳われた両者の力の両立・2000円余の車券を持っていたのかどうか男の記憶は怪しい。観戦場所も失念している。うっすらと思いだすのは、中野浩一も1番車だったと同行の友人にぽつり告げたことだ。
「第1回グランプリ優勝の中野も1番だろう。」
「ああ、そうだ。」
「2着は井上茂徳で枠の1-5は千七百円もつけた。」
「別線だった〇番の井上と中野ね。」
「3着に〇番の佐々木昭彦で九州の独壇場だったンだ。」
帰りの酒場が「〇」の数字で盛り上がったわけではないから、その偶然の尾が引くことも又なかった。
発 端
3連単の車券がはじめて発売された平成13年の「グランプリ」は平塚競輪場、優勝は伏見俊昭で、ゆっくり前団を押さえ、流しに流し、番手の競りを誘いながらドンピシャの発進と、画に描いたような逃走劇だった。男は神山雄一郎の頭一本だったから、2着に山田裕仁、3着稲村成浩の2車単「5-2」6000円余、3連単「5-2-8」85000円余の車券にはまるっきり縁がなかった。数時間後、自宅の最寄り駅である地下鉄の昇りエスカレーターから階上に出、ひろがる夜空が目にはいった途端、男におもいもしなかった"合点"が訪れた。(なんだ。マージャンの筋じゃないか。)
マージャンを嗜まないひとにはなんのことやら?ごく簡単に説明をさせていただくと、マージャンというゲームで使われる多種多様の牌(トランプのカードみたいなものだとおもえばよろしい)には1から9までの数字牌があり、その数字の相関はゲームの攻守に大小影響する。9つの数字の関係性は三群の筋にわかれ「一、四、七」をイー・ス―・チー、「二、五、八」がリャン・ウー・パー、残りの「三、六、九」はサブ・ロー・キューと称す。
「競輪グランプリ」最初の3連単の目がマージャンの筋だったことを"天啓"により気づかされた態の男は軽いショックをおぼえた。リャン・ウー・パーねぇ……。車券を推理する段には欠片も考えなかったことなのに、もしかしたら買えたかもしれない!とまで頭の中が"猛進"してしまう。男はギャンブラーの風上には置けない俗物であった。
親 和
前述したとおりマージャンはもちろん、更にポプュラーなオイチョカブにしても、一から九の数字を使うゲームであるから、競輪との親和性は高く、各々の理屈や俗語が競輪草創期より頻繁に使い回されてもいる。高校時分から"2種目"に慣れ親しんできた男が、リャン・ウー・パーに若干以上の反応を示したとしても不思議はなかろう。
妙 案
平成14年は山田裕仁の7番手捲り。翌15年はその山田と吉岡稔真の二人がゴール直後に"手を挙げる"という珍事こそおきたが、1/4車輪「も」先着していた山田がグランプリ連覇という快挙を成し遂げた。京王閣競輪場からの帰途、新宿の安酒場に男は立ち寄った。車券はかすりもせず懐具合も寂しい。それでも男は妙に明るかった。捨てずに持っていた予想紙を開き、山田、吉岡、太田真一の順で入ったグランプリの目が「6-3-9」であることを一二度確認してから、あとはイー・スー・チーだけだ、とつぶやき、馬鹿な妙案を温めはじめたのであった。
呪 縛
3連単なる賭け式が導入されてから最初のグランプリは5と2と8でリャン・ウー・パー、その翌々年には、6と3と9のサブ・ロー・キューなら、近々残りのイー・スー・チー、すなわち1と4と7の目が出現すること必定である。男の吹聴は二三年、もしくは四五年はつづいたかもしれない。しかし、十年十五年と出ないものだから、当の説く男のほうからはばかるようになっていった。もちろん男が十数年間の競輪グランプリを1・4・7ボックスのみで闘ったわけでは毛頭なく、時にはふと忘れてしまうことまであったものの、毎年グランプリの車番がきまる日には、1番、4番、7番にどの選手なのか気になってしようがなかった。今年は武田豊樹から二点だ。自信満々に勝負するかに、1・4・7の3連単6通りは少額でもかならず押さえていた。要は十五年間にわたり、余分なイー・スー・チー車券を買わずにはいられない、そんな解けない"呪縛"に手を焼いていたわけである。
解 放
1と4と7のしつこい"縄"が突然ほどけたのは令和元年の秋だった。たまたま見る機会を得た第1回競輪グランプリの懐かしい映像に、男の忘れかけていた記憶がよみがえる。追い上げる白帽の中野浩一を厳しく黒帽の尾崎雅彦が弾く。退いた中野を青帽の佐々木昭彦-黄黒帽の井上茂徳が拾った。嗚呼!? 佐々木の青色4番のユニフォームにフォーカスした男の眼の玉が瞬間しこった。上の空ながら念のため最後まで見たが、そこにはまぎれもない「1と4と7」の歓喜の輪があった。
あくまで3連単導入後のイー・スー・チーにこだわったのではなかったか? 男は己に設問しかけたが、よした。そう、それよりも男は"解放"のほうを選んだのだ。
時代をまたぐボーンヘッド……。男は自虐気味につぶやいた。