荒川秀之助と早坂悟・秀悟親子
4月1日、新元号が発表され、31年間にわたる「平成時代」は終焉を迎え、日本は「令和元年」という新しい時代を迎えることになった。昭和天皇が崩御された後、「平成」と大書された元号をテレビで見た時のことを今でも記憶しているが、「令和の時代」の発展と平和を心から願いつつ、私はこれからも競輪界の歴史を返りながら将来に望みを託して老後を過ごしたいと思う。
今から数年前、大阪府岸和田市にある日本競輪選手会大阪支部へ行き、用事を済ました後、すぐ側にある岸和田競輪場を訪ねた。ちょうど、その日は「前検日」で、翌日から始まるレースに参加する選手が全国各地から集合。JKAの職員や医療関係者から体調を調べられ、検車場では自転車の検査を受けたりしていた。
ファンの皆さんが検車場を見学される機会は皆無に近いが、出走前の検査は厳格で、体調はもとより自転車も完全に整備されていることを確認される。その間に報道陣は選手談話を取材して初日の紙面に掲載する原稿を書いていく。
昨今、私は前検日に競輪場へ行く機会は少ないが、たまたま、その日、宮城県の早坂秀悟(90期生=左下の写真)が検車場で「お爺ちゃん、来てるの?」と報道陣に聞きながら私を探してくれていたそうだ。
秀悟の父は49期生の早坂悟で、父の師匠が同県の荒川秀之助(25期生)だったのと、私も高齢者なのでお爺ちゃんといってくれたのだろう。それはともかく、早坂家に男児が生まれた86(昭和61)年、両親は荒川秀之助から「秀」の一字を拝借し、それに父親の「悟」を加えて「秀悟」と名付け、荒川が500勝を達成した祝賀会で荒川に抱かれたのが幼いころの秀悟である(2番目の写真)。次いで3番目の写真は最近の早坂悟夫妻と息子の秀悟。さらに右端の写真がそのころの検車場で笑顔を見せていた荒川の素顔だ。
続いて荒川の戦績に移るが、彼は宮城の東北高校在学中から26期生の泉豊、27期生の小山靖、28期生の山本善八らと共に名を知られ、卒業後の1967(昭和42)年8月、平競輪場でデビューした。日本競輪学校が静岡県の修善寺の近くに出来上がる1年前のことだった。
それからしばらくして西宮競輪(同競輪場は2001=平成13年に廃止)に出場した荒川は「赤板ホーム」から強引な先行策で追走する木村実成を相手に優勝した。当時の西宮は1周300mの「小回りバンク」だったが、工藤元司郎、稲村雅士、佐藤秀信らとともに「花の16期生」の1人に数えられた木村実成を相手に約600mを逃げ切って脚光を浴びた。
なぜかといえば、その前年(1966=昭和41年)、西宮で行なわれた「全国都道府県選抜」で13期生の高原永伍が「赤板前」から2周半(約750m)先行して優勝したのを大勢のファンが思い出したからだろう。後日、40期生の清嶋彰一が1987(昭和62)年の「千葉ダービー」(1周500m)で赤板から2周先行して優勝した話もあるが、これも、いつか原稿にしたいものだ。
話を戻すが、21歳の荒川は1970(昭和45)年11月に「岸和田ダービー」(左上の写真)を制覇し、約20日後の「競輪祭新人王戦」も手にした。ダービーと小倉競輪祭の新人王戦が同じ11月開催になったのは、この年に「大阪万博」が開かれ、競輪界が日程を変更したからだが、両レースの優勝を機に荒川は一気に頂点に駆け上り「飛燕(ひえん)」といわれるようになった。
それから約3年後、弟の荒川玄太が31期生としてデビューし、荒川兄弟と早坂悟は宮城県南部の寺院に石像(2番目の写真)を奉納。同郷選手の成長と競輪界の繁栄を祈願したが、その前後、宮城勢では21期生の河内剛、23期生の阿部道、36期生の菅田順和らが競輪の歴史に残る活躍をしている。
ここで再び荒川の話に戻るが、2大タイトルを手にした後、荒川は急に寂しそうな顔になった。後日、理由を聞くと、父親が腎臓病で人工透析を受け、彼はデビュー当時から賞金の大半を医療費に使った。それなのにタイトルを手にする3カ月前に父は冥途に旅立ち、晴れ姿を見てもらえなかったと涙ぐんでいた。
あれから約半世紀。今度は8年前の「東日本大震災」による津波で家屋は影も形もなくなり、肉親も何人か失ったと聞いた。その苦境から立ち直って昨年末に新居(3番目の写真)を建て、去る3月24日には菅田順和と共に県内の「サテライト大和(たいわ)」で競輪解説をしていた(4番目の写真)。
その間、弟子の早坂悟が1982(昭和57)年に大宮競輪でデビューして数年後、落車して京都府の病院に入院した時、家内を連れて見舞いに行ったのが「縁」となって交友関係ができた。彼はS級には昇格できなかったが、現在は荒川や菅田が登場したサテライト大和を職場として一生懸命に働いている。
一方、父を追ってプロ入りした息子の秀悟は「先行」主体の選手で、平成28、29年の両年、競輪選手会が主催する「全日本プロ選手権自転車競技大会」の1kmタイムトライアルを連覇して注目された。ことに29年大会では「宮城の武将・伊達政宗」の陣羽織を思わせる装束をまとい、1分3秒399の好タイムをマークして力走したという。
それによって、アマチュア時代の2004(平成16)年にアジアジュニア選手権大会・ケイリン1kmタイムトライアルで2種目を制覇した実績なども改めて評価され、プロ生活においても大きな支えになっていることを実感するそうだ。
これで今回の話は終わらせてもらうが、孫のいない私を探すのに「お爺ちゃんは?」と問いかけてくれた秀悟の言葉は生涯忘れないだろう。(敬称略)
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。