ダービー7連覇の河内正一
去る7月18日付のスポーツ紙に、静岡県伊豆市の「日本競輪選手養成所」内に完成した「JKA250」(木製走路=1周250m)の落成式が行われたという記事が載った。同養成所はこれまで「日本競輪学校」という名称で親しまれてきたが、今春、養成所という名称に変更。新設の「JKA250」はオリンピックをはじめ国際競技を目指す選手たちの憧れの舞台になるだろう。
記事を読みながら50年前の1969(昭和44)年に同校を最初に卒業した26期生を思い出した。彼らは同年5月にデビュー。2カ月後にプロ野球(元西鉄ライオンズの2軍)から転身した島田伸也(以下も敬称略)と、中学時代は相撲に精を出したという松本州平(共に高知)がA級に特進した。
続いて北山英利(長崎)、杉渕孝一(神奈川)、矢村正(熊本)らも特進。最終的にはその年に37人が特進した。特進制度はそれより7年前(1962=昭和37)年に発足したが、同期生でこれだけ多くの特進選手が出たのは初めてで「日本競輪学校」の存在が瞬く間に全国に広まった。
偶然だが26期生が卒業した年、初めて競輪の予想記事を書いた。予想は難しかったが、その前年(昭和43年)に「競走得点制度」が出来、得点上位の選手を軸に◎や○印をつければ的中度が高くなるという思いで原稿を書いた。
その直後、身長180cm前後で力士のような体格の河内正一に声を掛けられた。彼の住居が神戸市にあり、私の勤務先も同じ神戸市で駆け出しの新人だった私に目を向けてくれたのだろう。
昔、兵庫県には西宮、甲子園、神戸、明石競輪など4つの競輪場があったが、河内のホームバンクの明石(左上と中央の写真)は(1961=昭和36)年に廃止。それから36年後の1997(平成9)年に「明石公園自転車競技場」という名称になって生まれ変わった。右端の写真は同競技場の竣工記念式だが、そうした歴史を振り返りながら河内の偉大さを紹介させていただこう。
彼は55番という選手登録番号で、1948(昭和23)年に創設した「第1回小倉競輪」に出場。甲規格、乙規格、実用車という3種目の中の実用車部門に参加して優勝。日本初のプロレースで快勝した喜びを思う存分味わった。
小倉の開設を機に競輪の人気は高まり、翌49(昭和24)年には大阪の住之江でダービーを開催。実用車で地元の後藤欣一が優勝した。彼は「ゴトキン」という愛称で親しまれ、同年の第2回川崎ダービーも制覇した。だが、翌昭和25年から29年の5年間に各地で開かれたダービー(実用車部門)で河内は7回も連続優勝したという記録を見て驚いたことを覚えている。
左上の写真は昭和29年の川崎ダービーで競走車部門を制覇した松本勝明(京都)をはじめ、驚異の7連覇を達成した河内、女子レースで優勝した18歳の田中和子(奈良)らを称えた書面で、その右側は当時の表彰式。だが、不思議なのは7連覇した河内の題字の上に「軽快車」と書かれている文字だった。
その理由は不明だが、2年後の56(昭和31)年に実用車競走はなくなった。しかし、2002(平成14)年に廃止した西宮競輪の走路が1周300mだったころ、レース中、物凄いスピードで主導権を握った河内がバンクを飛び越えて地面に墜落したという驚異的な脚力などは今も語り継がれている。
その河内に競輪の仕組み、選手の強弱や脚質、選手の好不調の見方、選手間の友情関係など数々のことを教えてもらったが、ある時、大相撲や野球には「引退式」があるのに競輪界ではそれを見たことがないということを話し合った。
その話を松本勝明に告げたところ、彼は2~3年後の1981(昭和56)年5月に引退の決意を示した。それを即座に河内に伝えると「僕も一緒に」といったので両選手の引退を特ダネ記事(左から3番目の写真)にした。1341勝という歴代最高の勝ち星を記録した松本と、河内の引退式は別々に行われたが、河内の式典は翌82(昭和57)年3月、西宮記念の開催中に実施(右端の写真)。現役最後の河内の表情を見て涙ぐむファンもいたという噂も耳にした。
引退後の松本は日本競輪学校の名誉教官になり、河内も選手会専任指導員(左上の写真)として活躍。その過程で世界選手権の監督や後進の指導にも力を注ぎ、1999(平成11)年には前述の「明石自転車競技場」で開かれた「第30回全日本実業団自転車競技大会」(中央の写真)の運営にも加わった。
同大会には、長野五輪のスピードスケート男子500mで金メダルに輝いた清水宏保や武田豊樹という選手も参加した。両者は競輪への転向を噂されていたが、武田は1000mタイムトライアルを1分7秒174のタイムで優勝した。右端の写真はその時のもので、これが清水か武田なのか自分でも判別できなくなったが、結果的には優勝した武田が競輪に転向することになった。
その武田が、ダービー、高松宮記念杯、オールスター競輪などを制覇して大スターになった茨城の武田豊樹(88期生)であることは改めて説明するまでもないだろう。しかし、明石競技場で武田の優勝を称えた河内正一は、武田がデビューする2年前の平成13年に74歳で天国に旅立った。もし、彼が今も生きていたら武田の成長をどれほど喜んだか。想像するたび胸が締め付けられる。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。