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お相撲さんが競輪選手に
 去る10月12日、台風19号が関東に上陸。空前絶後の猛威を振るい、80人以上の尊い人命を奪った上、豪雨による河川の堤防の決壊、水没した家屋、泥水に埋まった新幹線の列車など恐ろしい被害を残して北方へ去った。その間、前橋競輪場の「寬仁親王牌世界選手権記念トーナメントGI」は1日順延、場外車券売場などにも影響し、月末には千葉県でも猛烈な豪雨となった。
 私も国民学校(現在の小学校)1年生の1943(昭和18)年2月、大阪の名物「通天閣」の火事で火の粉を浴び、2年後の敗戦の年は「空襲」で自宅が全焼。同年9月には疎開先の広島県の山村で豪雨に遭遇。家族6人が「大きな牛」に縄を結んで濁流の中を腰までつかって逃げた。
 そのような体験をしているだけに今回の台風で亡くなった方々の霊を悼み、大勢の被災者が1日も早く立ち直られることを願わずにはいられない。
 台風の直後、東京のJKAや日本競輪選手会など関係団体に電話で選手たちの安否を聞き、OBのことは掌握できなかったが、現役選手には悲惨な被害はなかったとのことで少し安心した。
 それから約2週間後の10月24日、BSテレビ東京の「開運なんでも鑑定団」という番組に大相撲の元力士で3代目の若乃花(以下敬称略)が出演。その優しい笑顔を見て台風19号以来の緊張感が少し和らいだ。彼は弟の貴乃花と共に横綱に昇進。昭和時代に横綱の栃錦と初代若乃花が築いた「栃若時代」と同様に「若貴時代」の話はこれからも語り継がれることだろう。
 若乃花の笑顔を見ながら、競輪界にも中学時代から相撲に取り組んだ選手や、実際に「お相撲さん」になった神奈川の伊藤強(28期生)のように力士を目指して頑張った何人かの選手を思い出した。
 今回はその伊藤を中心に話を進める予定だが、その前に相撲に力を注いだ後、競輪に切り替えた何人かの選手を紹介させていただこう。
 左上の写真は伊藤選手(以下敬称略)ら28期生が日本競輪学校を卒業した日に撮影したものだが、同校は1968(昭和43)年に完成。現在は「日本競輪選手養成所」(所長=43期生の滝澤正光)と改称。翌1969年、同校を最初に卒業した26期生(高知)の松本州平は中学時代から相撲に取り組み、競輪選手としてデビューした当時は力士のような体格で力走。トップクラスで10連勝しA級に特進した。
 続いて神奈川の中野孝(30期生)と兵庫の炭崎民博(33期生)の両選手。2人は国士館大学で相撲部に在籍、一度は相撲界を目指して頑張ったと聞いている。これを追うように京都の八倉伊佐夫(42期生)と弟の多加人(52期生)も中学から高校時代は日夜、相撲に励んだらしい。
 力士志望はほかにもいたが、特に目立ったのは前述の伊藤強だった。彼は1971(昭和46)年2月14日、24歳の時に競輪選手として川崎でデビュー。初戦は2着に敗退したが、以後は勝ち続け、福島の中軍富次、福島の班目隆雄、徳島の寺本弘志、埼玉の井上三次に続き、同年の5月19日、京都向日町で10連勝を達成、5番目の特進選手になった。
 彼らの成績は総て記録し紙面の関係で一部分だけ掲載した。しかし、半世紀も前の記事で「天眼鏡」が必要になりそうだが、同期生ではほかに静岡の国持一洋、東京の桜井久昭、竝木道也、神奈川の下山照路らが次々に特進。近畿では大阪の井上謙二と大塚一貴代が20番目と24番目、兵庫の坂東利則が25番目など有望な人材がA級に特進していった。
 再び伊藤の話に戻るが、彼は1962(昭和37)年に「時津風部屋」に入門。東京農大卒の元大関・豊山の付け人になり、伊藤という「しこ名」で土俵に上がった。その直後に伊藤川に改名し、翌1963年には16歳で幕下、さらに1965(昭和40)年には十両に昇進した。翌1966年には若葉山と改名していたはずだ。
 ところが、2年後の1967(昭和42)年に「国技」といわれる大相撲をさらに面白く厳しいものにしようという「幕内力士の人数削減案」が出たそうだ。私は相撲の知識は薄いが、幕内の力士を削減すると下位の関取は十両に落ち、その影響は若葉山ら十両にも及んでくる。
 若葉山はその制度によって幕下に転落しなければならない運命に直面した。彼は真剣に考え本名の伊藤に戻って競輪に転向する決意を固め、練習に励み1970(昭和45)年に日本競輪学校の試験に合格した。
 それから何年かして伊藤に会った時、「競輪の練習より相撲の方がはるかに厳しかったと思う」と前置きして、相撲から競輪に転じたのは僕が最初。その次に福島の遠藤芳夫君(40期生)、3番目が秋田の高橋圭介君(83期生)だったという話を聞いたように思う。
 競輪選手になってからの伊藤にはビッグレースで大活躍した実績はなかったが、A級には約20年在籍して2002(平成14)年に引退。その間に生まれたといっていた二男一女も立派に育ち、今ではのどかな人生を過ごしていることだろう。
 今後、伊藤が過ごした相撲界はもとより、いろんなスポーツ界から競輪への転向を志す人は多いと思う。では、そのために競輪界は何をするか。大勢のOB選手はいうに及ばず、業界全体が力を合わせて良策を練りたいものだ。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。