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40年前の45期・松本整を軸に
新年、おめでとうございます。ご挨拶の後は普段のような文章で―。
10年前や20年前を「ひと昔前」、「ふた昔前」と言って懐かしむ人は多いが、今回は40年前の1980(昭和55)年に日本競輪学校(現日本競輪選手養成所=滝澤正光所長=43期生)を卒業した45期生の松本整(京都)に注目しながら当時の思い出にふけってみたい。
前にも紹介したが、1968(昭和43)年に創設した同校の最初の卒業生は26期生で、10選手がデビュー戦から無敗のまま10連勝してB級からA級に特進した。当時はA級とB級の2階級制度で、27期生以降も特進選手は多かったが、39期生が卒業した1977(昭和52)年に規則が改正。同期生同士が対決する「新人選手だけのレース」が実施された。
新人戦は厳しい訓練に耐えた仲間同士の戦いで、残念ながら39期生では10連勝した選手は見当たらず、40期生では石川浩史(愛知)、大川稔(宮城)、菅野良信(鹿児島)、遠藤三郎(静岡)。41期生では伊藤豊明(愛媛)、国持晴彦(静岡)、市原一幸(岡山)、原田則夫(新潟)らが特進したが、その人数は競輪学校の創設当時よりはるかに減った。
原因は新人が同じ舞台で「勝ち星の奪い合い」をしたからだろうが、一方、39期生の入学試験の時に「適性試験制度」を導入。自転車以外のスポーツに励んでいた人も受験でき、115名の合格者のうち22名が適性試験で合格。さらに1994(平成6年)には競輪学校の受験生が945名になり、合格者は10人に1人程度というほど厳しい状況になった。
これほど受験生が増えた背景には競輪の面白さと迫力に加えて、世界選手権大会で10連覇の偉業を達成した35期生の中野浩一(福岡)をはじめ、41期生の井上茂徳(佐賀)、43期生の滝澤正光(千葉)ら新しい世界を築く逸材が次々に脚光を浴びてファンを魅了させたからだろう。
そうした状況の中で今から40年前にデビューしたのが45期生の松本整(京都)=左端の写真=だった。彼は京都の洛北高校のラグビー部を経て適性試験を受けて合格。在校中は1着25回、2着35回を記録し、総合順位は14番目と書き残した帳面が手元にある。
私の勝手な想像だが、彼は1341勝という大記録を樹立し、引退後は日本名輪会の会長になった同郷の松本勝明を目標にしたのだと思う。本人にその話を聞いていないが、45期生の卒業記念は兵庫の齊藤哲也(中央の写真)が5戦とも1着で入線。38期生の山口健治(東京)に次いで競輪学校では2人目という5戦全勝の成績で優勝した。
また、同期生のA級特進者は伊藤浩(大阪)、山森雅晶(京都)、藤本達也(長野)、齊藤哲也(兵庫)、馬場圭一(香川)の順で、残念ながら松本は特進できなかった。しかし、デビューした翌年(1981=昭和56)年にA級へ昇格。2年後の1983(昭和58)に「競輪プログラム」が改正されてS級戦が始まったころから輝きだした。
松本はA級で10回、S級で8回優勝したが、記念競輪の初優勝はデビューから6年後の1986(昭和61)年の京都向日町競輪場。その後、2002(平成14)年には「寛仁親王牌」と「オールスター」を連覇。妻子と共に祝勝会で関係者やファンに心から感謝した(右上の写真)。
さらに「オールスター」は15回連続出場。「ふるさとダービー」は4連覇。そして2004(平成16)年には45歳で「高松宮記念杯」を制覇し、表彰式の席で引退を表明して選手生活を終えた(左下の写真)。それから15年後(昨年)の「グランプリ」で43歳の佐藤慎太郎(福島・78期生)が優勝したが、G1の最高齢優勝者は松本だろう。
話は戻るが、松本は東京の大学で研究生として運動生理学、スポーツ科学などを学び、向日町競輪場の近くに「クラブコング」(中央と右端の写真)という体育施設を設立。彼自身が開発して特許を得たマシンも使い、スポーツマンの実力向上に励んでいる。また、2012(平成24)年にはロンドン五輪に自転車競技の日本代表監督として遠征したという。
松本の活躍には頭が下がるが20年ほど前の結婚式も素晴らしかった。場所は京都ホテル。新婦は静岡県・修善寺の近くにある長岡町で「ミスあやめ」といわれた優しい美人。媒酌人は当時の競輪学校長、乾杯の音頭は松本勝明、司会は中野浩一で来賓は170人という華やかなものだった。
披露宴の最中、先輩の八倉伊佐夫(42期生)が、今は亡き松本の母に捧げる「周山(しゅうざん)街道」という自作の詩を読んだ。この街道は京都から福井県に通じる「鯖(さば)街道」ともいわれ、昔は福井で収穫した「鯖」を美しい北山杉を眺めつつ商人が京の都へ運んだ道だという。
詩の要点は、「僕と母の歩いた街道。僕と友と走った街道。僕と父と走った街道。そこにはたった一つお地蔵さんが立ち母地蔵と呼ばれています。そのお地蔵さんに今日は大切なことを報告に来ました」
「お母ちゃん、長い間、お世話になりお蔭さんで立派な結婚式ができました。それもこれも、みんなお母ちゃんのお蔭です。すると母地蔵はまるで生きているように『整、良かったねえ』と。その時、突然、雨が降り、母地蔵の顔に当たりました。彼は30年間の思いを込めて母地蔵の顔にそっとタオルをかけ、昔、ラグビーで鍛えた大声で『ありがとう。おおきに』と叫びながら思い出多い周山街道の母地蔵に頭を下げました」
結婚式の素晴らしさを一段と輝かせた八倉の朗読だったが、引退後の松本整の活躍は改めてお知らせしなければならないと思う。
(文中・敬称略)
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。