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競輪にしがみついて半世紀
 今から51年前の昭和44(1969)年、編集長から競輪か競艇のどちらかをという職務変更の話が出た。それまで12年間は速記をしていたが、ギャンブルが日ごとに盛んになり、会社には競輪・競艇担当者を増やし、紙面を拡大すると同時に社会貢献にも役立つ意図もあったようだ。
 我が家は長男が病死。次男は自閉症という重度の障害児がいる家庭で、レース部員なら夕方には仕事が終わり、早く家に帰って子供の面倒を見てやればという配慮から移動の話が出たらしい。(文中・敬称略)
 競馬担当者は多く、競輪か競艇の両方を見習い、その後、どちらかを選択することになった。だが、周囲から「車券や舟券は何歳になっても楽しんで買えるが、34歳から担当するのは無理だ」という先輩もいた。
 事実、大勢の選手名、出身地、脚質、得意技などを覚えるのは不可能だと思ったが、意外なところに助け舟が待っていてくれた。配置転換の話が出た昭和44年。この年、静岡県修善寺町に新設された「日本競輪学校」で訓練に励む最初の生徒(26期生)が卒業したのだった。
 同校は前年の昭和43年に開校(101名が入校)したが、卒業後、私は全員の名前や着順を記録。プロ野球元西鉄の2軍選手の島田伸也、中学時代に相撲を目指した松本州平(ともに高知)、実績上位と言われた杉渕孝一(神奈川)ら同期生全員のことをメモや記事にして頭に叩き込んだ。
 翌昭和45年には、身障児のために療養施設を建てた高知の現役競輪選手・山崎勲を紹介(左上の写真)。競艇では「富士五湖」の一つ「本栖湖」(もとすこ)にあった「選手養成研修所」(中央の写真)や、大阪・住之江競艇場で行われた「第5回鳳凰賞」で優勝した埼玉の加藤峻二のことなど(右上の写真)無我夢中で記事にした。
 競輪、競艇の仕事は多忙だったが、住之江の鳳凰賞のころ、元競艇選手が入社して競艇部門を担当。私は競輪専門になり、2~3年後から「予想記事」に着手したが競輪の予想は難しく頭を抱え込む日が続いた。
 でも、その苦しさを跳ね返すには「やり通す」しかなかなく55歳で退職するまで頑張った。その間、競輪学校の卒業目前の生徒らに京都の宇治・平等院、静岡の可睡斎(かすいさい)という寺院をはじめ、西武園、静岡、熊本競輪など各地で開かれた研修会に参加。「報道関係者らの質問に対する選手たちの対応について」何回も講義をさせてもらった。
 内容は「明日の出走表を見て自分の走るレースが分かった時、誰にも作戦を口外してはいけない」ということを力説した。というのは、新人選手が「今度、走る競輪場ではこんな作戦で」といった話をして引退させられた者もいて、運が悪ければ八百長に巻き込まれる恐れもあったからだ。
 しかし、競輪の並び(周回順序)を予想するのは難しく、ファンの間で「選手談話を掲載すればレース展開が推理しやすく、車券も買いやすくなる」という要望が高まった。昭和から平成時代に移るころの話だ。
 競輪界もこれに賛同。番組編成担当者から翌日の出走表が記者に手渡された後、記者は選手にそれを見せながら「自分は先行主体」、「僕は誰それをマーク」、「俺はまくりを狙う」など各自の意向が紙面に掲載された。
 選手談話はファンに受けた。自分で展開を考え続ける時間は少なく、談話を参考にしてレースの流れを推理し、車券を買って楽しめば良いのだからー。その結果、車券の売上額は伸び、新しいファンも増えていった。
 しかし、作戦の話はしてはいけないと言い続けた私には負い目があり、直後の平成3年に55歳で退職願いを提出。会社はそれを受け入れてくれ、以後、アルバイトとして約20年間、「狙ってみるか」とか「バンクのつぶやき」などのタイトルで原稿を書かせてもらった。
 その間には近畿自転車競技会の会報を約8年執筆。それと並行して近畿と中国両自転車競技会の30年史、日本競輪選手会の50年史の手伝い、JKA発行の「月刊競輪」や、競輪専門紙発行の雑誌の記事も書いた。
 退職後、こんなに仕事が増えるとは思わなかったが、感謝すべきは引退選手の遺品や、関係団体から貴重な「資料」などを頂戴し、その都度、記事にして読んでいただいたことだ。今回は終戦から75年になることにちなみ遺品の中で最も古い話を紹介して終わらせていただきたい。
 全国的に有名なのは選手登録55番の河内正一(兵庫)で、第1回小倉競輪(昭和23=1948年)の実用車部門で優勝。2年後の昭和25年から同種目のレースを7連覇したのが全国的に知られている。
 その点、同県の鍋谷正(選手登録31番=左下の写真)の知名度は少し低いが、当人が弟子の勝見節男(兵庫)を通じて私に下さった遺品の素晴らしさ。開戦直前の昭和15(1940)年、「国体青年学校屋外総合大会」という自転車競技で優勝。小倉競輪が始まって2年後の昭和25(1950)年には和歌山競輪で「近畿ダービー」を制覇するなど優秀な成績を残している。
 だが、第2次世界大戦が勃発した翌昭和17(1942)年、広島県呉市の「海軍」に入隊。後日、潜水艦の搭乗員になり「海軍一等機関兵曹」に昇格したという。呉市の海軍設備や当人の役職など私には分からないが、戦後、小倉競輪が始まるなり選手登録して活躍した。
 鍋谷の素晴らしさは競走成績だけではなく、小倉競輪が発足する3カ月前、「兵庫県サイクル選手会設立準備案」(中央の写真)という素晴らしい趣意書を残してくれている。機会があればぜひとも紹介したいが、このほか、各地の専門紙(右上の写真=競輪開設直後の専門紙)や公文書も手元にあり、こうした貴重品があったからこそ私も半世紀の間、競輪にしがみついて全力を注げたのだと感謝している。
 筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。