コロナの恐怖から脱出を
今から25年ほど前の春、高知競輪へ取材に行った時、京都放送局の山口進氏と会って食事をした。同氏は同局で競輪の実況放送を担当。近畿では評判のアナウンサーとして知られていた。
その時、食堂の店員が「隣の人、井上記者では」と問いかけ「前歯の特徴が似ているので」と言ったとか。現役を退いて5年も過ぎたのに高知放送局の長田修身アナウンサーにも同じような話を聞かされ、自分自身のことながら嬉しく感じた記憶がある。
だからといって何回も高知へ行った訳ではないが、昭和44(1969)年に静岡の日本競輪学校(現日本競輪選手養成所=滝澤正光所長)を最初に卒業した島田伸也、松本州平ら26期生を取材。その前後には前期生の山崎勲が昭和41(1966)年に妻の実家で数人の障害児を預かる「希望の家」という施設をつくり、後日、新しい施設が完成したことも紹介した。
左下の写真は昭和40年代の島田(右)と松本だが、私の記憶では高知競輪の2階に掲載されていたと思う。また、中央の写真は同じ時期に「希望の家」が「高知県重度障害児・者を守る会」の支援を受け、高松から高知へ向かうJR土讃線の「御免」(ごめん)という駅の近くに新築。名称も「土佐・希望の家」となり山崎勲の笑顔とともに紹介させてもらった。
参考までに同施設には日本自転車振興会から援助金が出た上、当時の金額で高知県から1千万円、高知市から200万円、周辺の市町村から118万円の金銭が拠出された。競輪界ではフアンに買ってもらった車券が福祉に大きく貢献していることを常に意識して仕事に力を注いでいると聞いている。
また、高知県には昭和25、26年に行われた第1回、2回の高知記念を連覇した松村憲(松村信定の父親)をはじめ、伊藤太助、山本哲夫、浜田修身、志和介一選手らが記念競輪を制覇したそうだ。しかし、その後、松本勝明、吉田実、中井光雄、古田泰久といった強豪らが頭角を現して時代の流れは変化していった。(以下、敬称略)
これら4人の選手の中で古田、吉田の両雄が天国に旅立たれた時は大きく報じられたが、去る9月7日、日本名輪会元副会長の中井が心不全で帰らぬ人となり滋賀県大津市内で告別式が行われた。訃報を聞いて何人かの知人に電話したところ、新型コロナウイルスで日本中が大騒ぎしているため競輪関係者はほとんど列席を控えるとのことだった。
中井は昭和29(1954)年から3年連続して琵琶湖競輪場で行われた「高松宮同妃賜杯争覇競輪」(当時の名称)を制覇。同じ年から4年連続して同レースを手にした女子の田中和子OBらとともに活躍した。右端の写真は両選手の晴れ姿だが、当時を知るフアンがどれほどおられるだろうか。
それにしても「コロナ」は世界中の人を脅かし、10月15日現在、日本国内だけで9万人以上の人が「陽性」になったと伝えている。コロナのために大勢の人が外出を控え、各種の産業が悲惨な状態に追い込まれ、各種のスポーツをはじめ競輪など公営競技にも大きな影響を及ぼした。
競輪では全国各地から選手が一つの競輪場に集まり、いつ、どこでコロナに感染するか分からないという恐れがあった。そのため4月初旬から「3密」(密集・密閉・密接)を避け「無観客」で開催。または開催そのものを中止するなど施行者や関係者は必死の思いで対策に苦慮されているようだ。
そうした中で競輪は7車立てで9レース制の競技を開始。この制度が競輪を知らない人にも注目されたのかどうか、電話やネット投票でレースを楽しむフアンが増え、車券の売り上げは増加してきた。だが、選手の立場に立てば9車立てが7車立てになると自分の出走回数が減って減収になるという心細さもあったのでは―。
それらの不安を解決する先駆けとなったのは、10月8日、松戸競輪で開幕した「GIIIナイター」の9車制ではないかと思いたい。コロナの恐怖は今後も続くだろうが、フアンの皆さんも競輪界も、いや、世界中の人がコロナ対策に総力を注いで撲滅したいものだ。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。