阪神淡路大震災前後の記憶
今から26年前の平成7年1月17日、「阪神淡路大震災」が発生、6000人以上の尊い命が奪われた。当時、私はプロ野球の阪神タイガースの本拠地として知られる兵庫県西宮市内にある甲子園球場の近くに住んでいた。
前にも書いたと思うが、我が家は長男が早い時期に死去。次男は重度の障害者で言葉も出ず、親子3人で大阪、奈良、神戸市などを転々とした後、同球場から1kmほど離れた公団住宅に移って競輪の仕事を続けていた。
そうした暮らしの中で震災前日の1月16日の朝、広島競輪の「開設42周年記念(前節)」の取材に行く用意をしていた。その時、次男が服にしがみついて「僕も一緒に」というポーズをした。現役時代なら同行は無理だが退職後はよく連れ歩き、この時も妻子と自動車で広島へ直行。岡山の三宅伸(64期生)が優勝したレースを取材して近くの旅館に泊まった。
その夜、地震が起きたが危険な感じはせず、翌日は山口県の「錦帯橋」を見物。橋の近くで「震源地は近畿地方」と聞き急いで帰路についた。ところが神戸市内で大火災が発生。幹線道路はトラックや自動車が長時間停車したまま動けず自宅に着くまでに30時間近くかかった。
長い前置きになったが、甲子園球場の所在地が分かれば、その北側と南側にあった西宮・甲子園の両競輪場を思い出す人も多いだろう。西宮競輪は阪急電鉄の西宮駅の近くにあったプロ野球(パ・リーグ)の元阪急ブレーブスの本拠地で開催された。
同球場ではプロ野球がない時、グラウンドに仮設走路を組み立てて競輪を開催。一方の甲子園競輪場は、阪神電鉄の甲子園駅前にある甲子園球場から南へ歩いて5分から10分程度の所にあった。
そして、全国の競輪場には競輪を主催する施行者(地方自治体)が存在し、当時の西宮・甲子園は兵庫県内の19市と1町が管轄。車券の発売から得た収益を何らかの方法で配分して市や町に役立てていた。
そのころ、日本国内で娯楽が多様化したことが響いたのか、昭和45(1970)年に日本一といわれた東京・後楽園競輪の廃止論が浮上し3年後の昭和48年に廃止。その前後に西宮・甲子園競輪を開催する19市1町の施行者が一体化して「兵庫県市町競輪事務組合」という立派な組織ができた。
同じころ(昭和44=1969年)、甲子園で開催予定だった「全国都道府県選抜競輪」(特別競輪)が、自動車の増加による駐車場の問題、周辺住民に与える観客の混雑問題などが浮上して同レースは中止。そればかりか記念競輪も開催を見送り、16年後の昭和60年まで記念競輪は開かれなかった。
その間、西宮、甲子園の関係者をはじめ全国の団体が全力を尽くしたが、「阪神淡路大震災」の影響や様々な事情が重なったのだろう。両競輪場は平成13(2001)年度で撤退。多くの関係者が訴訟を起こし、法律のことは何も分からない私も800人の従事員の生活を復活させ、ファンの娯楽回復に貢献することを願って住民監査請求をしたものだった。
しかし、西宮競輪場は百貨店になり、甲子園周辺は綺麗な住宅街になったが、このあたりで話題を変えて左下の写真を見ていただこう。これはごく最近、甲子園競輪場の跡地から1kmほど南側(大阪湾寄り)に設置されたものだが、
今から100年以上前の明治時代(正確には明治40年10月)に関西競馬場(通称=西宮浜競馬場)が出来、翌41年には「速歩競馬場」も開設。同43年には両者が合併して「鳴尾競馬場」と改名したという。
中央と右端の写真は、その近くにできた競輪場で自転車用の走路やボートレース場もあり、後日、この北側に創設されたのが甲子園競輪場だった。興味ある人には、ぜひ見に行っていただきたいものだ。
コロナの問題で競輪開催が中止になったり、無観客の開催などがある大切な時期に昔の話をして失礼しましたが、次は私自身のことを少しばかりー。
次は「競輪選手100人の軌跡」という本を500冊、2月末に自費で出版させていただくことになりました。これは「kkダービー社」発行の月刊誌に書いた古い原稿で、出版を薦めてくれたのは日本競輪学校(当時の名称)29期生の加藤善行OB。機会があれば見ていただきたいと思います。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。