競輪を覚えて半世紀が過ぎた
時々、「なぜ、競輪記者になったの」と聞かれ、その都度、日本が大東亜戦争に負けた1945(昭和20)年ごろからの話をさせてもらった。私は昭和10(1935)年に大阪市で生まれ、9年後、国民学校(現在の小学校)3年生の時、戦火を避け、近畿地方ではよく知られている「生駒山」の中腹にある「勧成院」(かんじょういん)という寺に集団疎開した。
現代風に言えば小学校3年生~6年生が疎開の対象者で、両親や兄弟と別れ、学年ごとに見知らぬ宿屋や寺院などで暮らすという生活だが、3年生の男子約40人は眼下に大阪市を望む見晴らしの良い寺院で寝起きした。
半年後の昭和20(1945)年3月14日、大阪は大空襲に遭遇。寺院の窓から故郷が真っ赤に燃えるのを見て全員が大声を出して泣き崩れた。
大空襲の直後、家を焼かれた多くの家族が次々に勧成院に来て児童を連れ去り、我が家も親子6人が広島県の母親の実家に疎開した。それから半年後の8月、広島と長崎に原爆が投下されて戦争は終わった。
そうした状況の中で私は小・中学校の6年間を広島県で過ごし、卒業後、単独で大阪に帰り、菓子屋で働きながら夜間の商業高校に通った。
夜間高校は4年制で、その間に「速記」を覚え、さらに2年間、速記塾に通ったあと新聞社に採用された。昭和32(1957)年、22歳の時だ。
仕事の内容は、プロ野球をはじめ、担当記者が外部で取材して書いた原稿(記事)を大きな声で読みながら電話で送って来る。それを速記文字で書き取り、元の原稿に書き直して担当デスクに渡すという役目で、仕事を終えて帰宅するのは毎日午前零時過ぎという状態だった。
その職務について12年後の昭和44(1969)年、上司から「競輪か競艇をやってみないか」という声がかかった。その時、私は34歳。この年齢で競輪や競艇の仕事を担当するのは難し過ぎると思った。
だが、入社して12年の間に長男は死去。次男は2歳過ぎに「自閉症」という難病にかかり、妻がその子を連れて障害児施設へ送迎するのが困難になっていた。そこへ、上司から「競輪か競艇への配置転換」の話が出た。その職場なら午後7時には帰宅して子息の面倒を見てあげられるという温情のある言葉だった。
当時、日本自転車振興会(現JKA)が静岡県修善寺に新設した日本競輪学校に最初に入学した26期生の島田伸也、松本州平、杉渕孝一、矢村正、大和孝義らが実戦で活躍。27期生では連続10連勝した須田知光、小山靖、上山公将、斎藤貢、竹野有一、小田真美、清田松記の7選手が無敗のまま10連勝してA級特進した記録(左の写真)などを報道して競輪を覚えていった。
右の写真は昭和45(1970)年12月、競輪学校に入学中の28期生が高原永伍、福島正幸先輩らを目標に「富士に誓った涙の錬磨」という題で書いた練習中の写真だが、2枚とも半世紀も前のもので見にくいのはお許しをー。
続いて下の写真だが、同じ年、「ソーレツ競艇選手養成」という題で山梨県本栖湖(もとすこ)にあった競艇選手の養成所や、大阪・住之江のボートの「第5回鳳凰賞」で優勝した加藤峻二選手(埼玉)を取材したが、その直後、引退したばかりの競艇選手が入社。私は「競輪」担当になった。
それから半世紀、数々の記録をスクラップに残したが、86歳という老齢になった今、過去に経験したことがない大惨事に直面した。いうまでもなく「コロナの怖さ」である。
世界中がこの難題を切り抜けようと努力している昨今、競輪界はどういう粘りを見せてくれるのか。今はそのことばかりを考えて過ごす毎日である。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。