祖母の葬儀に総ての成績を納棺
大変難しい「見出し」で原稿を書き始めたが、ここに表示した「祖母」というのは-。まず、その話から説明させていただこう。
最近、「女子競輪」の人気は日ごとに高まり、車券の売上額も順調に進んでいるようだが、周知のように半世紀も前に女子レースがあった。今回、取り上げたのは競輪が始まったころに活躍した山口県の神徳弘子(こうとくひろこ)選手と、その子孫にかかわる話をお伝えさせていただきたい。
今から73年前の昭和23(1948)年11月に小倉で競輪が始まった。これは歴史的な話で、日本自転車振興会(現在のJKA)発行の「競輪50年史」によると第1回小倉競輪の開催中に女子レースも行われたと記されている。
それによると、初期は女子の参加者が少なく関係団体の一員として働くタイピスト嬢まで加わったそうだが、そんなレースに爆発的な歓声が飛んだという。これに驚いた関係者はすぐさま女子選手を募集。翌24(1949)年から正式に発足させることになった。
女性が何人いたか分からないが、過去の選手名簿を見ると880人以上もいて人気は大いに盛り上がったようである。その中でも16歳でダービーを制覇した高木ミナエ(岐阜)をはじめ、黒田智子(福岡)、渋谷小夜子(神奈川)、田中和子(奈良)といった素晴らしい選手がファンの注目を浴びたとか。
同じころ前述の神徳選手も力走した。そのころ彼女は結婚して宮本弘子の名で参加したようだ。主人も一時は選手になろうと考えたらしいが、その後、55期生の宮本忠典が生まれ、現在は彼の子・隼輔(しゅんすけ)=113期生=が同郷の清水裕友、桑原大志、久保田泰弘、山下一輝選手らと共に頑張っている。
前置きが長くなったが、昭和8(1933)年生まれの弘子選手が生存されていたら88歳になるけれど、平成18(2006)年に他界されたとのことだ。
上に掲載した写真はJKA発行の書物から拝借したものだが、練習後に自転車を並べて一服する場面や、和服姿で集会に参加する女子レーサーなどいずれも当時の楽しい光景といってもいいだろう。
これらの写真の中に弘子選手がいたどうか分からないが、その後、55期生としてデビューした宮本忠典選手が誕生。さらに去る11月3日、防府記念の決勝戦で2着に入線した忠典の子息・隼輔選手も注目される時代になった。
忠典選手は野球で鍛えた体力に恵まれ、母親や親類の山根貞三、山根義弘、古見浩一郎に続いてプロを目指し、55期生の適性試験はNO.1の成績で合格。同期の鈴木誠(千葉)、工正信(広島)、大竹慎吾(大分)らと共に活躍し、その後は日本競輪選手会の常任幹事という大役を9年間も担当して引退した。
さて、ここから隼輔選手の話に移るが、私は恐ろしい「コロナ」を避け、この2年間に1度だけ近畿の競輪場の様子を見に行ったのみ。そうしたこともあって彼に会ったことはない。だが、前述のように祖母の弘子さんが死去され、葬儀が行われた日、隼輔選手がお棺の中に現役時代の祖母の全成績を入れて別れを惜しんだという話を思い出してこの原稿を書く気になった。
というのは、今から10年ほど前、大阪市内の「競輪専門紙」が社屋を移転した時、1万人前後の選手の全成績が記録されているのを見、100人分ほど頂戴した。その中に宮本弘子選手の全成績があったのでコピーして同家に送ったのではないかと思ったからだ。
この記録、別な所から入手された可能性もあるが、これに類似したことがあった。今は現役を退いているが、高知県に野本博俊(56期生)という選手がいた。彼は26期生の島田伸也選手(高知)の弟子でファンにも注目された。
というのは、26期生は静岡県にある日本競輪選手養成所(旧名=日本競輪学校)の最初の卒業生で、同郷の松本州平、熊本の矢村正、山口の大和孝義選手らと共に大きな期待を背負わされた選手だった。
その中の島田選手の弟子が野本だが、昔、野本の母親は岩村勢津子という名で競走に参加していた。それを思い出して2,3年前、母親の全成績を郵送した。母親は大喜びで、「実は、私の家は火事で現役時代の優勝旗や貴重品は総て丸焼けになりました。そんな時に貴重な記録を送って下さって」と物凄く喜んで下さった。長い間、競輪をたしなんでいると、こんなこともあるものだと私も心から喜んだ次第である。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。