競走中の事故を絶対に防ぎたい
令和3(2021)年も残り少なくなったが、12月に入って予想もしなかったことが新聞や知人からの連絡で伝えられた。
12月7日、和歌山競輪のS級準決勝戦で3人の選手が規定の位置より早めに「先頭誘導員」を交わしてゴールに向かい、3人とも「早期先頭誘導員追い抜き」という規則によって失格になったとのこと。非常に珍しい出来事があった。
昔、競輪には普通競走という名のレースが多く、出走の前日、何人かの選手が「トップを引きたい」と申し込めば翌日のレースで6番車として出走。時には6番車と8番車の2人がトップ引くレースもあった。
これらトップ引きの選手は途中で退き、後続の選手がゴールを目指して力走する。そんな制度はいつしか姿を消して今では「先頭固定競走」に変更。1周400メートル、500メートルなど走路の違いによって競走中の選手が誘導員を交わして最後の力を振り絞る地点が決まっている。
一例をあげると、400メートル走路では「誘導員が残り2周の赤板に到達」した後、車券の対象になる選手らはそこからゴールを目指し、500メートル走路では誘導員が「打鐘」の地点まで誘導。それ以後は400メートル競走と同様に各自が実力を発揮してゴールに向かう。以上が最近のレースだが、今回のようなケースは3選手に緊張感が高まり過ぎたせいもしれない。
次は、競輪界で有名な京都の松本勝明氏が死去された話の後日談を書かせていただきたい。私は今春、競輪記者生活50年を感謝して「競輪選手100人の軌跡」という本を出版。最初に松本氏宅へお送りし、それから何日か過ぎた3月6日、同家に電話して奥様と話をさせてもらっている最中に松本氏は死去された。想像もできない事実である。
このことは前回、詳しく紹介したが、コロナの関係で葬儀には参列できず秋に入って何回か電話した。だが、いつも応答はなく、電話局で聞くと電話帖に松本家の番号の記載はないという。不思議なことがあるものだと思っていたところ、12月に入って奥様も9月に死去されたとのこと。
これには飛び上がるほど驚いた。あれほど元気な声で自宅療養する夫の面倒を見ておられた奥様が半年後に亡くなられたとはー。人生とはこれほど悲惨なものかと身も心もすくむ思いがした。
私はこれまでに競輪関係者の死に関する原稿を何回も書き、選手たちは競走を終えて元気な姿で帰宅してほしいという願いを記事にした。なぜかというと、私自身が生まれたばかりの長男を死なせてしまったからだ。
私は昭和10(1935)年に誕生。高校時代から6年がかりで「速記」を覚え、22歳の時、新聞社に入社。その後、結婚して37(1962)年に男の子が生まれ「出産証明書」をもらった。当時は現在のような病院ではなく、あちこちにある産婆さんの家(普通の民家)での出産だった。
その直後、妻子の部屋に案内してもらった。妻は産後の疲れで熟睡していたが、子供の産着(うぶぎ)に血がにじんでいるのを見た。急いで救急車にお願いして近くの病院に運ばれたが、その日のうちに死んでしまった。
直ちに妻の両親に伝えたところ、娘が知れば発狂するだろう。だから、事実を話さず、赤ん坊は弱体で入院したと言ってほしいと忠告された。そこで妻を安心させるため、もらったばかりの出産証明書を持参して市役所へ行って「長男誕生」の届けをした。死んだ子供を長男として届ける不幸な家庭がこの世にあるだろうか。
その後、妻には「子供の様子はかなり悪いらしい」と言い、2週間後、両親を伴って赤ちゃんが死んだことを告げた。妻はある程度、覚悟していたのだろう。気が狂うほど泣くようなことはなかった。
競輪とは関係のない話を長々と続けたが、その後、約60年の間、毎日、仏壇にお参りし、それと同時に競輪選手の皆さんが健康な生活が続くように祈っている。だから「死」に関係する記事が多くなるのだろうが、今後もこれだけは許していただきたいと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。