月刊競輪WEB|KEIRIN.JP
奈良で美しいナイター競輪
今から2年前(令和2年)、それまでは耳にしたこともなかったコロナという不思議な病気が日本国内に広がり、政府は他府県へ出かけることを控え、集団行動に注意をはらい、夜間の飲食業者の閉店時刻を早めるなど、国内の様相が一変した。
その病気の恐ろしさに兵庫県西宮市内で暮らす私は、近くの大阪市や神戸市に行くことを控え、この2年間、競輪場へ行くことも遠慮した。しかし、どうしても行きたくなって岸和田競輪と、奈良競輪へ1度ずつ出かけた。
岸和田へは昨年6月、「高松宮記念杯」の最終日に高松宮様ご夫妻に仕えておられた佐藤進というお方が来られると思い、「初日の朝、井上がご挨拶に来ていた」と施行者の方々にお伝えしてくださいとお願いして帰宅した。

佐藤氏には「高松宮記念杯」が滋賀県の琵琶湖競輪場で開催されていたころ、「後世に競輪の歴史を伝えてほしい」と励まされた。その言葉に勇気づけられ、当時から書き続けた記事を「競輪選手100人の軌跡」という本にして昨年の春、出版させてもらうことが出来た。競輪記者として半世紀が過ぎ、85歳になってやっとやりとげた仕事となった。
それまでにも、元・近畿自転車競技会の30年史と45年史、中国自転車競技会の30年史などの発行を手伝わしていただいたことはあるが、自分の名前が表紙に載り、大勢の方々から感想を頂戴するなど、毎日、競輪と過ごして良かったなあと喜んだ1年だった。
話は横道にそれたが、昨年12月、奈良競輪でナイターを観戦した(上の2枚の写真)。私は30~40歳代のころ奈良市内で暮らし、有名な東大寺や薬師寺などへ何回も行き、ひとり息子の次男(長男は死去)は競輪場近くの西大寺保育園に通っていたため奈良競輪へは数えきれないほど取材に行った。
当時、同競輪場へは近畿日本鉄道の西大寺駅から市バスで行き、レースが終わり、翌日の予想原稿を会社のレースへ電話で送った後、田んぼのあぜ道を早足で西大寺駅へ向かったものだ。
そんな昔を思い出しながら初めてナイター競輪を見た。そこには都会の夜景のような華やかさは全く見られず、観客もわずかで白熱したレースにもかかわらず大きな声援は飛んではいなかった。
最近はパソコンなどで車券を買うフアンが多く、車券の売上額は向上しているが、現場に出かけるフアンは大幅に減っている、しかし、奈良競輪では映画館で映画を見るような大きな画像でレースを放映。それを真剣に見つめるフアンがかなり多かったのは喜ばしかった。
それにしても、現場に出掛けるフアンが減少しているのは確かで、これだけは何とかしなければならないと思ったが、何といっても残念なのは「コロナ」の発生だろう。
国民を恐怖に落とし入れた「コロナ」は、最近、「新型コロナウイルス・オミクロン」といわれ、想像を絶するような勢いで全国に広まってきたが、どうすれば解決するのだろうか。
そういえば、奈良のナイターを見学した時、施行者や関係職員の部屋に入れてもらう前、口の中に細いパイプを入れて厳重に検査され、選手が集まる検車場などへ入ることは一歩も許されなかった。      現在、新聞記者証も持たない身分だからこれは当然のことだと理解できた。
だが、それとは別に、今年に入って1月15日には岸和田競輪がコロナで中止。次いで前橋競輪は19日に初日を迎えた2日目から第6レース以降中止。さらに23日の別府競輪、28日には川崎競輪も中止になるなど大変な事態になっている。さあ、こうした難題を競輪界はどう対処するか。これは競輪だけではなく、日本全体が一団となってコロナから完全に脱出することを願いたいと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。