親父の影響ですね。親父が競輪好きでよく車券を買っていましたね。で、親父が俺を洗脳(笑)するために使ってたフレーズがあって。「俺なんか1か月みっちり働いても何十万しかもらえねぇよ。競輪選手なんかやればやるだけもらえるんだよ」みたいなことをよく言われてました。「3分走って競輪選手は大金稼ぐんだよ」っていうのをずっと子供の頃から聞かされたので、「会社に勤めて、そんなのなら嫌だな」ってのが、幼心に芽生えちゃったんですよね。
そうですね、小さい頃から父に連れられ一緒に行ってました。神山さんが初タイトルを取ったときも、宇都宮競輪にいました。でもその頃は競輪が好きだとか、どの選手が好きだとかじゃなく、単純にお小遣い目当て(笑)。
当時、親父が仲間と一緒に競輪場に連れて行ってくれて、「おい慎太郎、これでなんか食ってこい」と。そういう楽しみ方でしたね。グループの中で誰か儲けた人がいると帰りに、またお小遣いくれたりして。だから、競輪場っていうのは子供の頃から親近感がありました。
漠然と競輪選手もいいかなあと思い始めたのは中学生ぐらいですかね。
中学の時は3年間ずっと野球をやってたんです。ただ、団体競技だから例えばピッチャーが一人崩れてしまえば試合に負けちゃうし、バッター一人が活躍しても勝てなかったりする。でも、自転車っていうのは個人競技だから自分が頑張ればどうにかなると。まあ親父の洗脳が役に立ってたんじゃないですかね(笑)。自分の努力次第ではどうにでもなる世界だ、って思ってたんです。自分の足で、自分の力で勝てるっていうのはとても魅力的でしたね。でも実際競輪の世界に入ってみたら、完全な個人競技ではなくて、それぞれの役割があるわけで。それは競輪選手になってから知りました。奥深いんですよね、競輪は。
そう。考えた末、高校受験するときに競輪選手になるって決めて、自転車部のある高校を受けた。だから高校に進学っていうよりは、競輪選手になるための専門学校に行くという意識でしたね。選手になれるのかどうかはわからないけど、とりあえず高校で3年間できないようじゃ、プロになってもダメだろうなって思いながら、とにかく自転車で頑張ってみようって。高校は自転車部が強いことで有名で、インターハイとかも総合優勝何回もしているんですよ。金古将人さんとか、もう僕らが高校に入った時にはS級にあがってた先輩方がいたんです。だから、ここでやっていけば自分もそういう風になれんじゃないかなって。
高校ではロードが初めてだったんです。それまで、自転車競技って全部同じものだと思ってたわけで…。そしたら高校ではロードが多 かった。めちゃくちゃ辛いですよ、長距離っていうのは。きつかったです。休みの日は一日200キロ走ってました。だから、普通の高校生だったら連休とか祝日とかすごく嬉しいと思うんですけど、自転車部の仲間は休みの日がなければいいと思ってましたよ。なぜかっていうと、休みの日だと早朝50キロ、午前中100キロ、午後70キロ乗ったりして、一日の距離が200キロ超えてるわけですよ。すごく辛かったですね。監督も怖かったですよ。
自転車が元々強い高校だから、練習も辛くて当たり前だったんだよね。まあ、その練習があるからこそ、今があるんですけど。今は本当にそう思う。でも当時は辛かったですね。学生時代は、競輪選手になれるかどうかも分からないですからね。これを乗り越えたところで、本当になれんのか、ってそういう不安な気持ちが常にありました。
競輪学校は、高校卒業する年の秋に受けて、1回落ちて。その次の春に受かったかな。当時、年に2回試験がありましたからね。その頃、競輪学校の平均合格回数っていうのが、5回から6回だったんですよ。だから5回ぐらいまでは普通かなという気持ちで受けてました。
でも、国体とかインターハイで優勝や準優勝、ってレベルの人たちはみんな一発で入ってるんですよね。だからまあ、スムーズといえばそうだけど、エリート組ではないですね~。
時間がキッチリしてるし、練習ももちろん辛いんですけど。……厳しかったですね。
だけど競輪学校っていうのは、入ってしまえばもうその時点で先が見えてきますから。資格検定とかタイムを出せばほぼ選手になれるって自分で分かっているから、練習は辛いけど精神面ではどうにでも乗り越えられました。競輪学校に入った時点で、プロの道はもう約束されたようなものですから。ま、実際はその先は約束されてないんだけど(笑)
具体的には練習内容ですね。とにかく本数が多いんですよ。高校の時はどっちかというと、陸上でいえば長距離系のマラソンの練習だったんです。そんな練習をずっとやってきた中で、競輪学校に入って「今度、おまえは短距離選手だよ」って言われて100mの練習をするわけで す。まったく別物ですからね。使う筋肉も違うし。インターバルが短くて辛かったです。その頃は、科学的理論というのが取り入れられる前の時期なんです。外国からナショナルチームの監督が来る前で、科学的理論なんて言うのはまったくなかった。日本唯一の競輪学校でもまだそういう状態。いかに根性つけるかっていうのが大事とされてたんです。根性でどうにでもなるぞ、っていう。当時、急坂を上る練習があったんですけど「これで競輪学校の記録を塗り替えてやろうじゃないか」っていう訓練主任がいたんです。「何本やれば競輪学校の記録だから」って言って何本もやらされました。今考えると、無茶ですね(笑)。とにかく量をこなせって言われて。高校に比べて練習内容が一気に変わったから、体が対応しなかったっていうのもありました。それが辛かったですね。でも耐えられない辛さじゃないんですよ。卒業すればプロになれるっていうのが分かっているから、不安は少なかったです。
デビューしてからも練習はもちろん辛かったですが、最初のうちはやればやるほど成績も上がっていくし、選手達からも評価される。佐藤慎太郎という人間がどんどん認められて、競輪界に名前が知れていくっていうのが楽しかったです。特に25~26歳ぐらいまで、デビューしてからずっとね。練習すればするだけ強くなるっていう年齢でもあるし、もう競輪のことだけしか考えられないぐらいに楽しかったですね。タイトルとるまではずっとそうでした。
そうですね。半年ぐらい走れなかった。当たり前にやってきたことができなくなったことで、見えてきたものがありましたね。自転車に乗れないのはすごく大変だなって。競輪選手になったからには、競輪で飯を食べていくしかない。他のことをできるわけじゃないからね。だから、競輪を走れることの大切さみたいなのは改めて実感しました。
ファンの存在もそう。走れない時期にでもメッセージをくれるファンがいるんです。そういう人達が、入院してる俺に対して「GIの決勝とかグランプリを走ってくれ」って言ってくれるんですよ。まだ復帰できるかどうかも分からないし、元通りに走れるかも分からないのに、そういう風に期待してくれるわけですよ。そうやって応援してくれるファンの人達っていうのは、どんな時でも俺をずっと見てくれているんですよね。それで、また戻ってくるっていうのを当たり前のように待っててくれる。そういう人達のためにも、もう1回キッチリと頑張らなくちゃいけねえなって思いました。
S級S班に入ったって言っても、俺はただ山崎(芳仁選手)についていっただけで、自分の力で入ったわけじゃないと思ってる。ただのラッキー(笑)。自分が絶好調だったわけじゃないしね。だから、「俺はS級S班になってやったぜ!」みたいのはないですね。特に自分が変わったとも思わない。でも、大きい舞台で走れるっていうのはやっぱり違うかもしれませんね。だからこそS級S班入りしてGIに復帰した時、やっぱりこういうとこはいいなって改めて思った。それをずっとやっていきたいな、みたいな気持ちが強くなりました。そういうのはS級S班になったことによって再確認できたことですね。ファンの人達にはブログにもコメントいただいて、いつも本当にありがたいと思ってるんです。
オフはパチンコか麻雀。あとはゴルフですかね。オフにも勝負の勘を磨いてるんです(笑)。自転車のことを常に考えてなくちゃ嫌だっていう人もいるとは思うんだけど、僕はメリハリが大事だと思ってます。オフの日も自転車のことを考えたり、明日の練習どうしようとか考えてたら、精神的にも休まらないと思うし、体も休まらないと思うんです。だから180度切り替える。自分が好きなことをやって、やりたいことをやればいいかなって。自転車の調子を上向きにするのは、練習しかないとは思うんですよ。自転車の練習をどれだけ上積できたかっていうことで、 徐々に上向いていく。じゃあ、その練習をするためにどういう精神状態に持っていけばいいか、っていうと精神的に疲れを残さない事が大事だと思っていて。だから、精神を休めるためにオフを過ごす。まぁ、勝負事やっちゃうと、負ければイラッとするから精神的によくないのかもしれないけど(笑)。結構アツくなるタイプなんで。だから負けると「今日は帰らないぞ」とか思っちゃう。特に麻雀は性格でますよ。自分の手が出来てくると、他の人の手に合わせて自分の手を崩すのが嫌なんですよ。自分の型を崩したくないから、周りには気を遣わない。はまれば凄いけど、ダメだったら大敗する。勝つか負けるか大勝負ってタイプなんです。競輪のレースの時だけですよ、周りに気を遣うのって。遊びの時は周りに気を遣わないから(笑)