たまたま、とでも言えばいいかなぁ(笑)。いろいろな偶然が重なって、競輪選手を目指すことになったんです。
僕の実家は運送業をしていて、将来は運送屋の跡継ぎになろうかくらいの軽い気持ちで、整備士の資格も取れる自動車科のある工業高校に進学しました。
中学時代はバレーボールをやっていたのですが、高校では続ける気もなかったので、たまたま自転車部に誘われて、とりあえず入部(笑)。そんな状態で自転車競技を始めて毎日練習をしていたら、大会で成績を残せるまでになってね。
なんとなく、このままいけば、競輪選手になれるかもしれないと思って、競輪学校を受験することを決めました。
競輪とは無縁の家庭だったけれど、特に反対はされませんでしたね。跡継ぎについても、何も言われなかったんです。今振り返れば、自転車部に入ることを決めたときに、もしかしたら父は僕が競輪選手を目指すことになることを察していたのかもしれません。家族は競輪選手になるために応援をしてくれたし、まさかS級S班に入れるまでの実力になるとは想像もしていなかったようで、今ではものすごく喜んでくれています。
まずは師匠を探しました。これもたまたま、というかものすごいめぐり合わせなんですが、高校の先輩に競輪選手がいたことを知ったんです。それが、後に師匠となる野原哲也さん(福井・51期)です。当時、第一線で活躍していた野原さんに練習をみてもらいながら、競輪学校を目指して練習に励みました。
みなさんご存知かと思いますが、競輪学校は規則が厳しく朝から晩までびっしりスケジュールが組み込まれており自由時間もないので、その環境に馴染むことができなかったんです。カルチャーショックでしたね。練習だけしていればいいわけでもなく、人間関係の難しさもあるし、一人になりたいのになれないもどかしさもあって、集団生活が苦手な僕にとっては何でもストレスになっていました。
若さでわいわい乗り切れる部分もあるんですが、お互いが仲間でもありライバル。そこはプロの競輪選手を目指すための養成所なので、つらかったことのほうが多いです。
----その状況をものともせず、在校1位で卒業したことはすばらしいですね。
そうなんですよ。当時のことはあまり覚えていないし、在校1位になぜなれたのかはわかりませんが、1位になるという目的をもち、それを達成するために自分なりにがんばっていたんだと思いますよ。