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幼少の頃から、競輪が身近だったものでね。父親が競輪選手だったんですよ。父親のいとこも。そして、弟までも競輪選手になった・・・。いうなれば、競輪界の華麗なる一族です(笑)
ただ、競輪選手になろうとは全く思っていなかった。小さいときはプロ野球選手かプロレスラーになりたかったし(笑)。
小学生の頃、父親の手作りのロードレーサーにブレーキをつけたものにも乗ったけど、乗りにくかったんだよね。それで、自転車とは無縁の生活。しかも高校では野球部に入ったのに、すぐ辞めちゃって。だらだらと無気力な感じで過ごしてたんですよ。
高校は進学校だったから大学に行くつもりでいたけれど、3年生になって毎月模擬試験を受けてもたいして良い成績でもない。一流大学に入れるわけでもないなら、いっそ競輪選手でもやってみようかなという軽い気持ちで競輪の世界に入りました。 -
僕の父親はとても厳しくて、「競輪選手になりたい」と言ったら、殴られると思ったんですよ。それまで競輪選手になる素振りを微塵も見せずにきましたらかね。でもいざ話してみたら、「ほな、やってみるか?」という感じで、あっさり賛成してくれました。今思うと、何をするにも反対する人ではなかったけれど、気持ちよくやらせもらえたことは意外でしたが嬉しかった。
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僕は本当に根がぐうたらなんですよ(笑)。
だから、競輪学校に入って毎日が一変して、とにかくすべてがつらくて、嫌で嫌で仕方がなかった(笑)それまで、だらだらと甘い生活をしてきたわけですからね。 競輪学校は修善寺の山奥にあって、4人1部屋で個室もない。当時は、携帯電話もDVDもないし、テレビの時間も決まっているから観たい番組も観れない。もちろん、恋愛だってないですから(笑)
時々、帰省して競輪学校に戻ってくるときなんて、最寄りの駅から山を登ってくると本当に気分が悪くなってしまったほど。だけど、こんなに辛かったのに、10ヶ月の生活を終えて卒業するときは、解放されて嬉しかったはずなのに不思議と涙が出てね。達成感のようなものがあったのかな。 -
プロになってからも練習は辛かったです。自転車が好きだから競輪選手になったわけでもなく、自転車に一日中乗るのが苦痛でね(笑)しかも僕らが若い頃は、上下関係も色濃く残っていて、自分のしたい練習が満足にできなかったこともありました。
でも、そんな中で同級生の山田裕仁が僕の半年前にデビューをして、ポン、ポンと強くなっていたんです。山田と練習や合宿をするようになってから、彼を目標にがんばってきたことが励みになりましたね。それに引っ張られるようにして強くなったような感じもしますし。
そうこうしながら、1年1年続いた結果が20年。目の前のレースをこなして20年やからね。嫌だ嫌だと言い続けて自転車に乗って、周りの選手に悪いなと思うこともありましたけどね(笑)ただ、周りにいる選手の影響は大きいんです。2、3年前に辞めようか悩んだ時期もあったけど、岐阜県は同世代で活躍している選手も多いし、彼らがいることでがんばれる部分もある。競輪は体力や脚力だけではなくて、総合的な能力も必要だと思うんです。若いだけじゃなくて、長年の経験から有利に働くこともあるじゃないかな。
とにかく僕は、ジャングルで一人ぼっちだと即死するひ弱なタイプ(笑)だし、一人じゃ続けていけなかったはずですよ。