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岡山の実家が競輪場のすぐ近くの玉野で、競輪に馴染みのある環境で育ったんです。なので、小学校のときから競輪選手は身近な存在でしたね。中学の校庭が競輪場の近くで、野球の練習をしていると、競輪選手がかっこいい車に乗って現れるんですわ。その姿に憧れて、「競輪選手になりたい」と漠然と考えていました。
その後、高校に入学して、進路決定の時期が近づき、競輪選手となることを現実問題として意識しはじめた頃、身内の競輪選手のレースを見にいったんです。偶然、そのレースで落車があって、ひどいケガのシーンを目の当たりにしちゃって。
正直言って、競輪選手になろうとする気持ちが初めて揺らぎました。でも、学校の成績もいつも赤点でしたし、普通に働きたくないし。お金も稼ぎたい気持ちのほうが強かった。
実家が造船所を経営していたことも後押しして、最悪はそこで働けるという気持ちもあり、競輪選手になろうと決意しました。
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実は、自転車部に入ろうとも考えたけど、人気なくて応援もなければ女の子も見に来ない!これじゃねぇ(笑)。
野球部に入ったのは、競輪選手になるための体力づくりと割り切ったんです。入学した高校は倉敷で、商業高校の弱小野球部(笑)。 同じ苦しい練習をするなら、野球で1年からレギュラー入りで3年間活躍した方が楽しいに決まってますから。
だからチームメイトには悪いけど、甲子園を目指す気なんてさらさら無いし、プロ野球入りも考えたこともなかった。だって、プロ野球の方がメシを食う方が難しいからね。1年生からレギュラーで、4番打者でピッチャーっていうと聞こえがいいけど、「4番打者でピッチャーじゃないとやらない」って言って(笑)。公式戦全敗の弱小野球部だったからこそ僕のわがままが通用しちゃったんですよ。
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いや、競輪学校も実は1浪して入ってます。
しかも競輪学校の卒業成績は、本当は2位なんですよ。成績はダントツで有坂君(有坂 直樹選手)がトップだったからね。たまたま有坂君がレースに出てない間に、僕が1位になっただけなんですよ(笑)。在校生1位になったときは自分でびっくりしたね。ただ、振り返ってみると卒業の成績が1位でも、競輪の世界を10とすれば、当時はその2、3くらいしかわかってないような感じ。成績は形ばかりで、とにかくプロとして生きていくのに無我夢中でした。
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つらかったことは、とにかく練習です。師匠がすごい面倒見のいい人で、家も近所だから24時間ほぼ監禁状態。 「この人、ホントに人の世話をよう見れるわ」と思うくらい。当時はその生活がつらすぎで、師匠に対して「病気になってくれや」と思ったほど。最低な弟子でしたわ(笑)。
ただ、そのおかげで今がありますから、師匠には本当に感謝しています。
僕も一度だけ弟子をとったことがありますが、そのとき初めて師匠の気持ちがわかりました。良かったことは、競輪以外のいろいろな方と知り合えることですね。こんな弱小野球部の赤点小僧だった自分が、全国のいろいろな方と知り合えて、何億も儲けさせてもらっているなんてね。
仮に今、転職して、年収400万円稼げといわれても、ぼくの実力じゃホントに無理ですわ。 自分には競輪しかない。まさに天職だと思ってます。きっと生まれ変わっても競輪選手ですね。今の嫁とは一緒にならなくてもね(笑)
それだけやりがいのある仕事なんです。