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小学生の頃、同郷の久留米出身の中野浩一さんが、自転車の世界選手権で世界一になりました。1億円プレーヤーとしても活躍していましたから、とにかく地元では大騒ぎだったんです。子ども心にその存在は大きくて、中野さんは夢のような人でした。その影響もあって、当時の学校の文集に「夢の1億円プレーヤー目指して」と書いた記憶があります。
でも、もともとは競輪選手を目指していたわけではありませんでした。中学、高校は陸上部だったし、将来は建築設計技師になりたかったので工業高校に進学しました。たまたま偶然ですが、その高校が中野さんの母校で、しかも同じ陸上部だったんです。
陸上の練習をしていると、時々、中野さんが練習を見に来ていました。ポルシェやBMWに乗ってね(笑)その姿があまりにも輝いていてかっこよくて・・・。絶句しました。その一瞬が今でもよみがえるくらい印象的です。そこから、「陸上よりも競輪の方がいいなぁ」となんとなく思い始めたんです。
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陸上部の監督は、中野浩一さんがいた当時の監督と一緒だったんです。監督のお兄さんも競輪選手ということもあってね。高校2年生の夏頃かな、「自分は競輪選手になりたい」ということを監督に相談して、いろいろとアドバイスを頂いたんです。監督曰く、「やるからには、ちゃんと指導してもらったほうがいだろう」ということになって・・・。何人か候補がいたのですが「やっぱり、中野やな」と(笑)
まあ、いきなり弟子入りしたわけではなくて、親父が中野さんに見初められたのかな(笑)親父は相当厳しくて気合いの入った人だから、「あの親父の息子なら大丈夫だろう」ということで受け入れてもらえたんだと思いますよ。
もともと、親父は競輪選手になりたかったんです。だから、自分のことのように喜んでくれて、「競輪選手になりたい」と言った翌日には車を買い替えてしまった。一緒に練習できると言いながら、ローラーをつけたりもしていましたよ。ホント、例えて言うと「巨人の星」の星一徹のような感じ(笑)。でも、いまだに親父との練習は続いているんです。今年で選手生活が21年目に入って、親父は74歳になりました。あまり普段の会話はありませんが、自転車のことで悩んでいるときは真剣に話す。練習の状態で調子のよしあしもわかってくれるし、成績不振のときも「あまりいろいろ考えんで、思い切りいけば絶対やれるから」と励ましてくれるんです。それが自信につながりますね。
ただね、いまだに親父はこわい存在ですよ。自分は41歳にもなるのに、口ごたえできないですから(笑) -
グランプリに出場したい目標を持って走っているのに、上のクラスで戦うほど、負けて、負けて、負けて・・・とつらい時期が続いたことがありました。勝てない上に、年も取る。他の選手と比べて力もなければ、この先チャンスにも恵まれないかのもしれないなんて、すごく弱気になってしまったこともありました。
そんなときに支えとなるのは、やはり家族の存在ですね。「もうだめだ」と思ったときに、そこに家族がいる。自分の背中を押してくれるような気がしているんです。 特に子どもの存在は大きいです。自分が親父なのだから「あきらめたら、いかんちゃ」と思うし、弱気ではいられなくなりますから。子どもから教えられることが多いというのは本当ですよね。今となっては有名な話になってしまいましたが、『最後まであきらめないぼく』という息子が書いた言葉。何気なく書いた言葉なのでしょうが、自分にとっては「お父さん、がんばれ」って、ばしっと頭を殴られたような気持ちになりました。そのお陰で今の自分がある。でも、自分がインタビューでこの話を言い続けていたら、逆に子供がプレッシャーになっているみたいで…。ちょっとかわいそうです(笑)